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兆民の遺言

   西暦2000年は中江兆民の百回忌であった。 中江兆民は明治時代の唯物論者であり、自由民権運動の思想的な指導者であった。 岩波文庫版の『一年有半・続一年有半』の校注者である井田進也の年表によれば、中江兆民は江戸末期の弘化四年(1847)に土佐・高知に生まれた。 この年表によればその生涯は三つの時期にわかれる。

   第一の時期には、長崎や江戸でフランス学を学んだのち、明治五年(1871)フランスへ留学、明治八年の帰国後はフランス学者として著作・教育活動をおこない『三酔人経綸問答』を著した。

   第二は、明治二〇年(1887)十二月、保安条例のために東京を追放され、大阪で『東雲新聞』主筆として、明治の政治・経済・社会批判に鋭いしかも雄大な論陣をはった時期である。この時期には大阪から立候補して第一回帝国議会議員ともなった。そして自由民権運動の再編と大同団結のために努力するも、政府の懐柔策による自由党の腐敗などに怒り三ヵ月に満たずに辞職、再び新聞人として生きた。

   最後は、明治二五年八月に札幌の『北門新報』を退社した以降、鉄道事業をはじめとする経済活動に従事した時期である。事業はことごとく失敗、多大の負債をかかえ、生活にも困窮する。そして1901年四月、大阪にて癌の診断、医者から一年半の命と宣告される。そのまま大阪にとどまりまさに遺言として『一年有半』を書きあげ幸徳秋水らの力で九月に出版。帰京し自宅で一気に『続一年有半』を書き十月に出版、十一月十三日に死去した。享年五十五歳であった。

   これが中江兆民の生涯である。

   兆民は、日本国でおこなわれてきた「近代の知」についてそのはじまりの時期に本質的な問題を提起した。政治経済社会の全分野での閉塞状態がだれの目にも明らかになりつつある今、この兆民の遺言に立ち返ることは、現在からの活路を模索するうえで意味深い。

   中江兆民は近代日本語世界で人民の思想を築こうとした先駆けであった。中江兆民は今から百年前の1901年、二十世紀が始まったまさにそのとき「わが日本、いにしえより今に至るまで哲学なし」(『一年有半』)と言いきりそして死んだ。『一年有半』と『続一年有半』は、癌を宣告された兆民の遺書である。 兆民の遺言は今日も新しい。問題が何も解決されていないという意味において新しいのみならず、明治以来百三十年間で今ほどこの問題が切実なときはないという意味で新しい。

   『続一年有半』は「無神無霊魂」という副題をもつ。兆民はこの書で、みずから「ナカエニスム」と名づけた唯物論の世界観・人生観の哲学形成に着手している。「余は断じて無仏、無神、無精根、即ち単純なる物質的学説を主張する」との立場を鮮明にしつつ、「精神はこれが働き即ち作用である」と物質の働きとして人間の精神を基礎づけようとする。「物質」と「精神」を対置する二元論ではなく、一つの「もの」からすべてを解き明かそうとする立場であった。

   『続一年有半』は、末期喉頭癌のためにつまった気管を切開し、かろうじて呼吸を保ちながら、九月十三日からはじめて十日ばかりのあいだに書きあげた。それは近代日本で、最初に唯物論を自らの言葉で系統的に述べたものであった。兆民には十分な資料の下に思想をさらに展開する時間はなかった。短い時間のなかでただ思索と経験を土台にして書かれた。これは兆民の遺言だった。

   兆民はおおよそ次のように言っている。

    日本には、いにしえより今に至るまで、哲学がない。本居宣長や平田篤胤といった人々は古典を調べ、いにしえのことばを研究する一種の考古学者であって、天地性命の理に至ってはまったくくらい。伊藤仁斎や萩生徂徠は新しいことも説いているが、要するに儒学者にすぎない。ただ、仏教の僧のなかに独創性があり一派の創始者となる功績を残したものもいるが、しかし宗教家の世界のなかでのことであって、純然とした哲学ではない。最近では、(初代東京帝大学長の)加藤弘之や(東京大学哲学科にケーベルを招へいした)井上哲次郎が、みずからを哲学家と標榜し、世間もまたそれを認めているが、その実、自分が学習した西洋の誰それの論説をそのままに輸入しただけの「論語読みの論語知らず」で、哲学者と称することはできない。

    哲学の効用はかならずしも誰にでも明らかというわけではない。貿易収支がどうか金融が順調かどうかとか、工業商業が振う振わないなど、哲学と何も関係ないようにみえるが、そもそも国に哲学がないのは、あたかも床の間に掛け物がないようなもので、その国の品位が落ちるのは免れない。カントやデカルトは実にドイツやフランスの誇りであり、かの国の床の間の掛け物であり、かの国・人民の品位と深い関係がある。哲学なき人民はなにごとをなすにも深遠な意図をもつことができず、浅はかになることを免れない。

    日本人を海外諸国の人とくらべてみると、ことの理解がはやく時節の必要にしたがって推移することができ、頑固であったということがない。日本の歴史に西洋諸国のように悲惨で愚ろかしい宗教上の争いがないのも、明治維新がほとんど血を流さずに成し遂げられ三百の大名が先をあらそって土地と政権を返上して遅れるところがなかったのも、旧来の風習を洋風に改めてしまい惜しんだり気にかけることがなかったのも、ここに理由がある。

    だが、日本人が騒々しくて軽薄であることの大病根もまたここにある。志を立て実践する力が弱いという大病根もまたまさにここにある。独創の哲学なく、政治において主義がなく、党派の論争を粘り強く持続することができないのも、その原因はここにある。一種の小賢しさ、ずるさであって、真に偉大な事業を成し遂げるのには不適当である。きわめて常識に富む民であるが、常識以上のことをなし遂げることは、到底望むことはできない。だからこそ、すみやかに教育の根本を改革して、死んだ学者よりも活きた人民を生み出すようにすべきことは、まさにこの故である。

   ここにいわれている次のことはそのまま二十一世紀を迎えた日本国にあてはまるではないか。

第一、
日本国には、いにしえより今に至るまで、哲学がない。
第二、
日本国の哲学者は西洋の誰それの論説をそのままに輸入しただけの 「論語読みの論語知らず」で、哲学者と称することはできない。
第三、
独創の哲学なく、政治において主義がなく、 党派の論争を粘り強く持続することができない。
第四、
教育の根本を改革して、死んだ学者よりも 活きた人民を生み出すようにすべきである。

  


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