もともと理学は、明治時代のはじめに西洋の「philosophy」に出会ったものがそれを日本語で受けとめようとして、漢字の「理」、訓読みすれば「ことわり」の学の意味で用いた。しかし、その後「哲学」にとってかわられ「理学」の意味は変わった。中江兆民ははじめて西欧語の philosophy を訳したときに漢字語として理学を用いた。1886年、彼は自由民権運動の思想的な土台とすることを意図して『理学鈎玄』を著した。そのなかで「理学の趣旨は万事に係わりて基本原を窮究するに在り」と定義した。つまり「あらゆることの基本原理を明らかにすること」を理学の内容としたのである。
漢字語としての理学は『易経』のなかにある「窮理」に拠ったものである。兆民によれば、「易経窮理の語に拠り更に訳して理学と為」(『理学鈎玄』)したということである。
英語「inte-llect」の意味は「こと−わり」であり、それはまたギリシア語の「dia-logos」する働きでもある。「ことわり」は西洋語の intellect のもつ意味と言葉の仕組みが同じである。すなわち inte-llect であり、この言葉の語源的なしくみは「こと−わり」(語順は、わり=inte,こと=llect)とまったく同じである。西欧哲学とはこの intellect の働きそのものである。「dia」は割ることであり、「logos」はまさに日本語の「こと」に対応している。「logos」は言葉を意味するとともに問題になっていることの真相を意味する。それが指示する内容が「こと」である。「dia-logos」は「対話」と訳されるが、その言葉の構造はこれまた「ことわり」と同じである。「ことをわる」ことは、人間が互いに「語りあう」ことである。「こと」を間にして互いに語る、それが「語らい」である。「こと」を人の中で語りあうとき、それがつまり「考える」ということである。こと自体に導かれて自らの内部で対話を重ね、ことをわっていく、これが考えるということである。
西洋において「知」は対話によって展開され、その本質的な内容が「こと−わり」である。ここには人間が考えることについての西洋語と日本語の共通性がある。普遍性がある。「ことをわるはたらきとしての知」を愛するという意味が philosophy の本来の意味である。日本語の「ことわりの知」は、 inte-llect する「知」と分かりあうことができる。「理(ことわり)」の「学」として philosophy をとらえるところには、 philosophy のなかに入ってその趣旨を日本語のなかに移そうとする意思が働いていた。福沢諭吉もまた言葉を『易経』から直接にとって「窮理」と訳している。「ことわりを窮明する学」としての「窮理学」、その簡約としての「理学」こそ、 philosophy の訳として日本語の訓にうらづけられたものであった。
「ことわりの学」として philosophy をとらえるなら、少なくとも江戸末から明治期に出会った西洋というものを主体的に、固有の言葉の内部からとらえることはできた。このように「理(ことわり)」の学としての意味をくみとり日本語の訓によって裏付けられた言葉をあてることが、兆民や諭吉によっていったんはなされた。
しかし、明治政府は「理学」を捨て「哲学」を採用した。「当時フィロソフィーを哲学と定めた西周が、明治十年東京大学創設と同時に文学部に哲学の科目を設くるに及んで此言葉を採用せしめたことから確定語のようになった」(小川甫文「近代日本の哲学思潮」、理想社版『哲学講座』第三巻)。
西周は、幕末は徳川慶喜の側におり、一八六七年十一月には「制度腹稿」を作成した。ここで大政奉還後の政治制度の青写真を、将軍を行政の長とする絶対主義的政治形態である。ところが、明治維新がなるや変わり身早く今度は啓蒙家として民主主義を宣伝した。彼はそのころ philosophy 「賢哲の希求」という意味で「希哲学」と訳していたが、後になって「哲学」とした。「希」が抜け落ちしかも日本語のなかからの意味をもたない「哲学」にした。このことは西洋の哲学をすでにできあがった体系としてとらえる近代日本国の大学哲学の傾向を確定した。大学の哲学科はできあがった体系としての哲学を日本国内に紹介することを専らにするところとなった。このような根のないことばでなされた民主主義の啓蒙は底が浅く、西周自身、明治政府の反動化とともに国権主義者に転向した。
つまり哲学という言葉が「確定語」のようになったのは、西洋の文物を移入しようとする明治国家と国権主義者となった西周によるものであって、日本語の内部から発展して語として熟したものではなかった。言葉の意味が内部から定められなければ、逆に人間に対して働く力が決定的に弱くなり、人間は容易にその思想を投げ捨てる。西周にとっての「哲学」はその例である。かくして、近代日本国の支配的な「知」において、固有の言葉日本語のことわりは閉じられたままなのである。
明治時代の末になって「哲学」の定義はいまだ定まらず曖昧なままであることが自覚されはじめた。三宅雪嶺は主著『宇宙』(明治四十二年刊)のなかで「哲学は明治年間に於ける訳語なるも、支那哲学といひ、印度哲学といひ、数千年前より東洋に存在せるにも適用され(略)定義および範囲は曾て帰一せず。」と述べている。そして当時の日本国の哲学界は
近年の情状を観れば、哲学は徒に過去を顧み、昔時斯く斯くの体系ありしを言ひ、其脈絡を詳かにし、其変遷を尋ぬるに勉るも、現在の知識慾に満足を与ふるの極めて少なく、偶々現在の問題に接触すれば(略)今の謂ゆる哲学は餘りに消極的に失して(略)言ふを値せじ。と嘆いている。しかし三宅雪嶺には根本を掘りさげその土台にある日本国の近代そのものを問うことはできなかった。
こうして、日本国の大学では哲学科は文学部に所属し、理学部とは自然科学と数学からなる部のこととなって、哲学と科学が分離、さらにいえば隔離された。philosophy を理学とし、理学部を理学によって統一された一般科学の学部とすることが、明治期に日本国の大学制度を作っていった人たちにはできなかった。哲学なしに自然科学をおこなえば、それは技術にすぎない。そのほうが、明治の為政者にとっては、西洋の科学技術と社会制度の導入に都合がよかったのである。近代日本国の支配的な「知」は内部からの必然性を欠いた外発的な「知」となった。西洋の説ばかりを引き合いに出し、たち返るべき根拠を外国の説に求める大学哲学教師と、これまた言葉の定義を外国語に求めたまま難解な言葉をくり出す哲学者や哲学研究者がこの百年幅をきかしてきた。
一方で、西田幾多郎や田邊元をはじめとする人々は日本語の論理に立脚して考えを深めようとした。西田幾多郎は当時の「哲学」を「無くても一向困らない玩具のような」ものと考え、これを克服しようと苦闘した。そこでなされた営みは継承し乗り越え発展させなければならない。しかし彼らの営みはやはり孤立しており、現代の日本語の背骨になっていると言うことはできない。つまり彼らのいとなみは近代日本国を根本的に規定してきた「日本国近代の知」という「考え方の枠組み」を破壊し、新しい「考え方の枠組み」をうち立てることはできなかった。
今日やはり哲学は西洋の流行を追うものであるということが支配的であり、事実としてそういうものとしてある。近年になって現実から離れた移入の学への反動として、「実感を通した平易な言葉で語ろう」とする小さな経験にとらわれた「哲学談義」や、読者を煙に巻いてごまかす「哲学入門」が流行している。固有の言葉で考え、考えを深めて普遍に至ろうとする試みは、今日いよいよ乏しいといわざるを得ない。