next up 次: 経済原理に抗して 上: 対話集

はじめに

北原真夏と南海K生は同じ人間の内にある。一人の人間のなかに二人の人間が同居し、2006年のいま、それはまだ十全の統一を実現しているとは言いがたい。

一人は、教育労働運動に取り組みながら、その一方で党派の活動に就き、教員を辞めて専従になり、そのあげくそれに破れた。その後生活を再建しながら、根のある変革思想が成立する根拠を言葉に問い、少しばかりの準備をしてきた。青空学園にきて十年以上になった。一人は、いちどは数学研究を離れながら結局は離れられず、数学を教えることで糊口を凌ぎながら、智慧と生きる力をつける学問としての数学を根づかせようと、青空学園に居着いて高校数学の根拠を勉強し、高校生に語りかけながら、方法論や構造論をまとめてきた。

これは一人の人間の内のことではあるが、同時に二人は分裂し葛藤し、青空学園も別個にやってきた。二兎を追うもの一兎をも得ずであり、一人の人間の仕事として中途半端なことこのうえない。革命とはあのようなことではなく、数学とはこのようなことではない。人生をふりかえって、いずれにおいても本気であったかと考えると、やはり厳しさがなかったことは認めねばならない。しかしまた、近代日本という時代の条件の下で、人間を失わずに生きようとすれば、二兎を追うのもやむを得なかったと自己弁護もする。

やむを得なかったものなら、そこには幾ばくかの真理もあるはずだ。こうして二人は対話をはじめた。 時あたかも帝国アメリカが没落する時代である。資本主義による人間の収奪と搾取が世界大にあからさまになる場において、その帝国の没落がはじまった。時代はふたたび転換し始めたのだ。経済第一の時代から人間第一の時代へ、これは大きな転換だ。人間は苦しい段階をくぐらなければならない。しかしこのような困難のなかからこそ、まったく新しい人間と世のあり方が生まれてくる。

二人の対話の主題は、この歴史の段階を、どのように吾が身に引き受けるのかということに、あるはずだ。内部からの問いかけに耳を傾けながら対話を重ね、この時代における人間の根拠を問わねばならない。この営みが時代の動きにつながっていることを信じている。第一章は、2005年年末から2008年秋の経済破綻までの新自由主義全盛の中での対話であり、第二章はその破綻を受けての対話である。

2011.1.17 追記: 2010年年末から2011年年始にかけてようやくこの二人は統一した。この結論を追記しこの対話集を終える。これからは一人の人間として、経験を深めながら、残された時間を生きぬくつもりである。

2012.2.6 追記: 上記の追記を書き、この対話を締めくくって間もなく、東北大地震と東電核惨事が起こった。それから一年。ようやくに身辺の整理もした。これからは、時間を与えられるかぎり、青空学園の場で思索を深めたい。

2017.7.12. 追記: この対話では「人間」を定義し、それを用いている。2016年以降、その「人間」の意味が実は「人」にあったことを確認し、「人―人間―人」の第三の「人」を用いている。対話集では元のままにしてある。


AozoraGakuen
2017-02-10