◯こと(言)のは(端)をことばという。「こと」は「こと−の−は」として現実の存在となるとき「ことば」となるのであり、「ことば」を意味あるものとするその本質、内容を示す。
◆「こと」を分節して切りとり、そのようにしてつかまれた「こと」をあらわして現実のものとしたしたのが「ことば」である。言いかえれば、「こと」の現実のあり方(現実態)が「ことば」である。現実のものとするする行為が「いう(言う)」である。言葉は言うという行為がなければ、現実には存在しえない。
「ことば」は本来は「こと端(バ)」であり、「は」はタミル語[vay]の「言葉」そのものである。それが熟成して「軒端」が軒の端とさらに軒に近い空間を意味するように、「こと」と現実とが触れあう領域での「こと」の顕れを意味した。同時に「ことば」は「ことの端」や「ことの葉」、つまり「こと」が言われたり書かれたりしたものとして「ことの現実態」をあらわしてきた。
「現実態」として、人々が感情、意志、考えなどを伝え合うために用いる音声、また、それを文字に表わしたもの、を示す。その表現行為にも表現内容も用いる。
言葉は、通じるか通じないかで同じ言葉であるか異なる言葉であるか、判別される。同じ言葉ととらえるとき、たとの区別で「日本語」「フランス語」のように識別する。このように識別しうる根拠としての、ひとまとまりの言葉を「言語」という。
人は、言葉において人である。人をして人とする言葉、それがその人の固有の言葉である。言葉は、ともに伝わることを以て言葉でもある。ゆえに言葉は一定の広がりをもつ。そのことにおいて一つの言葉が成立する。青空学園の言葉を日本語という。昔からの日本語、本来の日本語があるか否かは問わない。一方、言葉は言葉である以上、一つの構造をもつ。その構造はその言葉で世界をとらえ、思いをよせて考える枠組みを定める。
言葉は日々に新たに豊かになる。人が生きるということは、その経験によって言葉の意味を定め直し、枠組みを更新し、豊かにすることである。言葉を定義するというのは、人生の経験として学んだ言葉の意味や意義を、辞書を通して古人の用法と照らしあわせたうえで、もういちど自分の言葉で書き直すことである。
▼表現行為 ◇『万葉集』七七四「百千(ももち)たび恋ふといふとも諸弟(もろと)らが練(ねり)の言羽(ことば)は我は頼まじ」 ◇『伊勢物語』一〇七「されど若ければ、文もをさをさしからず、ことばも言ひ知らず」
▼表現内容 ◇『土左日記』「『黒鳥のもとに白き波寄す』とぞいふ。このことば、何とにはなけれども物言ふやうにぞ聞こえたる」 ◇『源氏物語』手習「いとをかしう、今の世に聞こえぬことばこそは弾(ひ)き給けれ」 ◇『竹取物語』「うち泣きて書くことばは」 ◇『小説神髄』坪内逍遙「形容(おもひいれ)をもて演じがたく、台辞(コトバ)をもてうつしがたき」
▼用語
◇『源氏物語』玉鬘「よろづの草子・歌枕、よく案内(あない)知り、見つくして、そのうちのこと葉を取り出づるに」
◇『小説神髄』坪内逍遙「詩歌伝奇に鄙野(ひや)なる言詞(コトバ)を用ふるを悪(にく)むが如くに」