◯「もの[mono]」の「かた[kata]」を「こと[koto]」という。
世界としての「まな」は「もの」からなる。「まな」を「つくる」その「かた[kata]」が「こと」である。ひとはそれを「こと」としてとら、言葉をつける。
ものの集まりが一つの型として括られるとき、その括られたまとまりをひとは「こと」としてつかむ。《無秩序であった》もののなかにことわりを見出し、一つの「かた(型)[kata]」にとらえるとき、そのかたを分節した言葉を「こと」という。これが「こと」の原義である。「くち(口)[kuti]」の古形「くつ[kutu]」のかたる内容が「こと」である。
「くつ」は「くつわ(轡)〔くつ(口)わ(輪)〕の意」に残っている。ことばになることによって、無秩序なものがまとまり「こと[koto]」が成立する。沖縄語では「くち」は言葉の意味である。「うちなあぐち(沖縄語)」。
※タミル語<katan>起源。定めや義務という意味である。それが熟成した。
◆「こと」は日本語でもっとも基本になる言葉で、その意味は深く大きい。人にとってこの世は、動き、生き、響きあい、輝き、生まれ死に、興り滅びしている。それを人は「こと」のはたらきとしてつかむ。「こと」は、人が自らの諸活動と自らが生きる場所に生起する内容をつかもうとするとき、のべられる言葉である。
「もの」の世界に意味を見いだし、これを一つの「こと」としてつかむ。このとき、「こと」として「つかむ」「私」が確立する。また、「こととしてつかむ」ときに、意味を成立させる「とき」が生まれる。「時」の成立である。「こと」としてつかまれた内容は、人には「時間的に経過する一連の出来事」として意識される。そのように統括してつかむ作用が人の認知行為である。
「こと」そのものは言葉にならない。山の光景にわれを忘れ、職人が制作に没頭し全精神を傾けて仕事に打ち込んでいるとき、人は「こと」のうちにある。そしてわれにかえり反省が生まれる。そのとき、体験したことを言葉にする。直接の出会いから「こと」を経て、概念の把握へ転化する。事実としての存在が本質としての存在に転化する。
つまり「こと」は、「こと(の)は(端、葉)」としての「言葉」に現実化する。「は」は言葉を意味するタミル語vayに由来する。「こと」それ自体は、「言葉」ではない。「言葉」は「こと」の現実の形であって「こと」そのものではない。「こと」は「言葉」が成立する土台であり、「言葉」につかまれる以前の本質を指し示す(指し示そうとする)言葉である。
「くち」の古形「くつ」のかたる内容が「こと」である。
「もの」に対して「こと」は生きた動きである。「こと」が成立している「とき」から、我にかえって人は「こと」が成立する前提として「もの」の存在に気づく。人にとって「もの」は「とき」を超え「こと」によらず存在する。だから「ことのかたりごと」(古事記「八千矛神の歌」「天語歌《あまがたりうた》の結び)は一回的な歴史的な事件についての語りを言う。
第一、ものの集まりに意味を見いだし一つの「こと」としてつかむ力が人にはある。その力が人を人に定めている。人が、「もの」を相互に関連する意味あるもののあつまりとしてつかむとき、そのつかんだ内容を「こと」と言う。話者と世界の関わりを、話者が統一してつかんだとき、それが「こと」である。人にとってこの世界は、動き、生き、響きあい、輝き、生まれ死に、興り滅びしている。それを人は「こと」としてつかむ。
第二、山の光景にわれを忘れ、職人が制作に没頭し、全精神を傾けて仕事に打ち込んでいるとき、人は「こと」のうちにある。そしてわれにかえり反省が生まれる。そのとき体験した「こと」を言葉にする。こととしてつかむ行為は、ものの生きた事実から、名づけられた言葉への転化であり、ものとの直接の出会いから、人の考え方、つまり概念としての把握へ転化する。これが経験である。事実としての存在が本質としての存在に転化する。「こと(の)は(端、葉)」としての「言葉」に現実化する。
第三、ことそのものは言葉にならない。ことそのものは、有為転変する世界をこととしてつかむ行為の土台であり、その前提である。人はこれを神としてとらえてきた。「みこと(御言)」は神の言葉であった。今われわれはこれを「こと」そのものでつかむ。ことは直接に知るものであり、名づけるものではない。「こと」が、ものからものへ、あるいはものから人へとどけられ、新しいものが「なる」。
▼「こと」は漢語の影響を受けて「言」と「事」に分化して用いられるようになる。日本語の根底には「事」は「言」を与えられてはじめて「事」として存在するという考え方がある。したがってこの分化が意識されても、意味は相互に転化しうる。
次の例は、「言」と「事」への分化以前の「こと」である。この「こと」は現代日本語では、他の語句を受けて、これを名詞化し、その語句の表わす行為や事態を体言化する形式名詞としての用法のなかに生きている。ある内容を「こと」としてまとめる働きをするのが、本来の「こと」の基本である。
◇『万葉集』巻二十・四四五八「にほ鳥の息長川は絶えぬとも君に語らん言尽きめやも」◇『それから』夏目漱石「親爺から説法されるたんびに、代助は返事に窮するから好加減な事を云う習慣になっている」
◇『それから』夏目漱石「左様な事を仰る」◇『嵯峨本方丈記』「淀みに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久敷くとどまる事なし」◇「彼が知っていることがわかった」
※最後の例では「彼が知っているということ(事)がわかる」という意味の場合と「彼が知っている内容がわかる」という意味の場合がある。これを区別するため、「の」で行為そのものを指示する用法が発達した。「彼が知っているのがわかる」といえば、「彼が知っているということ(事)がわかる」の意味に確定される。「彼が話すことを聞く」といえば話の内容を聞き取ることを意味し、「彼が話すのが聞こえる」といえば彼の「声」という「もの」を認識することを意味する。
▼いのちの持続がことである、そこから生命を表す。◇「こと切れる」◇『源氏物語』幻「いみじきことの閉ぢめを見つるに」
※この用例は、「こと」の持続が、いのちそのものであることを端的に示している。それはどういうことか。「こと」としてつかむことはいのちの働きそのものであり、またつかまれる内容はこの世界の息吹そのものである。「こと」はこのような人の営みが成立する土台としてのいのちそのものをも指し示す。
▼言葉を表す。古代は多くの用例があるが、近代になると「こと」は「事」の意味を主に表し、言葉を表すときは、「言葉」「言語」を用いるようになる。
※「こと」がなることによって、他と区別される。ここから「異なる(こと―なる)」が成立した。また「断る(こと―わる)」も、明確にいうことで、相手の要求と異なることを対置する意である。
◇『日本書紀』皇極三年・歌謡「はろばろに渠騰(コト)そ聞こゆる島の藪原(やぶはら)」◇『万葉集』一七七四「たらちねの母の命(みこと)の言あらば」◇『万葉集』三〇七八「波の共(むた)靡く玉藻の片思ひに我が思ふ人の言の繁けく」◇『土佐日記』「唐(もろこし)とこの国とはこと異なるものなれど」◇『土佐日記』「この歌は常にせぬ人のことなり」
▼事実を表す。古くから「事」をあてて用いられてきた。中世以降この意味で用いられることがほとんどになる。◇『万葉集』四〇九四「善(よ)き事をはじめ給ひて」◇『源氏物語』薄雲「ことのたがひ目ありて」
◇『宇治拾遺』一・五「すこしも事と思ひたるけしきもせず」◇『徒然草』一二二「次には手書く事、むねとする事はなくともこれを習ふべし」◇『蜻蛉日記』中「明くれば起き、暮るれば臥すをことにてあるぞ」
◆「もの」と「こと」
日本語では「もの」と「こと」は厳格に区別され、言葉の構造の骨格を形づくる。最も基本的な構造日本語が「こと」と「もの」である。次の例で「もの」と「こと」を入れ替えると明らかに意味をなさない。
◇「まあ、人のいることいること」◇「出がけに不意の客がきたものですから」◇「人生はむなしいもの」◇「なんとばかげたことをしでかしたものだ」◇「教えてくれないんだもの」◇「きれいな花だこと」
「もの」と「こと」は取り違えることなく使われる。意味をいちいち判断して使うのではなく、発話者の意図と言葉が一体になっているから「もの」「こと」は正しく使われる。日本語の構造と言葉の意識が一体になっている。「もの」の一連の世界を一つの「こと」としてつかむのは人の認知作用の根幹である。日本語に「こと」という言葉が生まれたのは、考えてみれば不思議である。言葉というもののはたらきそのものを言葉にした言葉が「こと」である。
「こと」は事実の発見の意識を表現し、「もの」は個人の力の及ばないものの存在を表現している。「もの」が世界を「見る」ことによって切りとられるのに対して、「こと」は世界に耳を傾け「きく(聞く、聴く)」ことによって言葉としてつかまれる。
「もの」が対象であるか、「こと」が対象であるかは、ほぼ動詞の意味によって定まっている。◇「見たいものがある」「差し上げたいものがあります」◇「聞きたいことがある」「話したいことがある」「悲しいことがあった」
しかし◇「書きたいことがある」◇「書きたいものがある」
同じ「書く」であるが、「書きたいこと」は筆者の内面を表現しようとすることを意味し、「書きたいもの」では報道など客観的事実を書きあらわして伝えようとすることを意味する。