up 上: 定義集

おもう

【おもう(思う)】[omou]

■思う[omou]とき、ことが生まれる(うむ(生む)[umu]-[are])。ものにひきつけられ、心がそのものの上にかかること。かかることで生まれるその内容をことという。人は、ものに思いをかけ,そのもののことを考えるのである。

◆「おも[omo]う」は「うむ(生む)[umu]」から転じたことばであり、「生む」ことが起こる根拠となる行為という意味である。思うことは創造の源である。その思う行為がなぜ生じるか。それは「ものが人を惹きつける」からである。ものが人を惹きつけとらえるとき、人はものを思う。惹きつけられているその人の心のあり方、つまり、惹きつけられた状態の人の意識とその内容を「思い」という。思うは、具体的には、自己の内に、恋・思慕・恨み・感慨・望み・想像・執念・予想・心配などをじっと避けがたくもっていることになる。思うことは単にある感情などを持つということではない。「思うことが避けられない」、「思わずにはいられない」というところに「思う」という詞の本質がある。

「もの」と人はこのように互いに交感し響きあっている、というのが「思う」がとらえる世界である。「思い」は「思う」の連用形の名詞化として「思う」という心の働き、また「思う」内容を表す。

人の力ではどうしようもなくて「思わずにはいられない」ことが本質的な意味である。人の内部に生まれたその「思い」は、これをそのままじっと心中に置けば「思い」のままである。

▼ひきつけるものが物ならば「執心」「哀惜」等の意味になる。
◇たれか故郷を思わざる。
◇国をおもう
◇この山は本当に美しいと思った。
◇もの思いにふける。
◇逃がした魚のことを思うと悔しくて。

▼ひきつけるものが人ならば「恋」、「思慕」、「恨み」等の意味になる。
◇私には心に思う人がいる。
◇彼に思いを寄せる。
◇親を思う心にまさる親心。
◇あのときの思いを晴らす。
◇親の思い、子知らず。

▼ひきつけるものが何かの「こと」なら「感慨」、「執念」、「望み」、「想像」、「心配」、「予想」等、あらゆる内容をもつ。「思う」のが「こと」の場合、その「こと」はひとつの確定した事実として「思う」対象となり、その意味で「もの」化している。
◇明日は雨だと思う。
◇彼は来ないと思う。
◇自分が正しいと思う。
◇つらいと思ったことなどない。
◇この事態をどうするか思い悩む。

※〈「思う」と「考える」〉「思う」が「不可避」であり、思っていることを分析する余地がないのに対して、「考える」は人の意識的な能動的な働きであり、考える対象のことを分析しようとする。

「考え」はつねに方法と形式(いずれも「かた」)が問題になりそれが、「考え方、考え型」である。これに対して「思う」は方法や形式を選ぶ余地はない。「思い方」という言葉はない。

「思う」と「考える」に本来意味の重なりはない。次の例では、「思う」は運命的であり他の選択肢に比べて今が重要であるときの決意の表現であり、「考える」はいくつもの対等な選択肢の中からひとつを選んでいることを表現している。
◇私はいま山に登ろうと思う。/私はいま山に登ろうと考える。

▽「どうして、なぜ、いかに」等根拠を問う問いに対しては「…と考える」で答えなければ答えにならない。「思う」は理由を言挙げできなくともそれ以外にないというときに用いる。

◇「彼は来ないと思う」
◇「彼は来ないと考える」

▽逆に自分の心情を「考える」ということはできない。
◇実にすばらしいと思う
◇うれしく思います。
◇「私のことを思っているのなら、もっとしっかり考えてほしい。」

これは思うことがただちに考えることではないが、しかしまた本当に思うのなら考えるはずだ、ということを意味している。

※このように思うと考えるは言葉の構造上からも意味からも別個な言葉であり、その不即不離の関係の中にこそ、日本語で考えることの奥行きがあるのに、近代日本語は「思考」という詞を作った。「思う」と「考える」の違いは近代化にとって邪魔だと考えられその違いが塗りこめ隠されたのである。近代化が一巡し,西洋近代文明が現実に行き詰まった今、この違いを異ならせる([koto]-[naru])ことが必要である。


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