up 上: 定義集

しぜん

【自然(しぜん)】

■有りとし有るもの、生きとし生きるものすべてを一つにくくって自然(しぜん)という。自然(しぜん)はそのうちに人間も人間の文明が生みだしたものすべてを包む。自然(しぜん)は、おのづから(己つから)、つまり内からの力と働きによって生まれ展開している。これを自然(しぜん)は自然(じねん)に成る、という。

※漢字語「自然」はその意味が変転してきた。

◆「自然」はかつて仏典の言葉として日本語化された。この場合読みは「じねん」である。「じ」も「ねん」も、それぞれ「自」「然」の呉音である。すこしも人為の加わらないままであること。本来そうであること。

この意味の「自然」を自らの宗教的経験で定義したのは鎌倉期の仏教者親鸞であった。それが「自然法爾」である。「法爾」はそれ自身の法則にのっとって、そのようになっていることを意味する仏教語である。浄土真宗で、自力をすてて如来の絶対他力につつまれ、まかせきった境涯をいう。親鸞は「自然(じねん)」を「おのづからしからしむ」と訓読した。

江戸時代の思想家安藤昌益には著書『自然真営道(しぜんしんえいどう)』がある。かれは「自然(しぜん)」を「ヒトリスル」と訓読している。これも内からの力と働きによってものが成ってゆく様を述べている。

▼自然(じねん) 内からの力で生まれ成長すること。

◇「自然薯(じねんじょ)」やまのいも(山芋)の別名。
◇「自然生(じねんじょう)」人の手が加わらず、天然のままに実るさま。また、その作物。
◇『宇津保物語』国譲中「昔より心ざし侍れど、じねんに怠る」

▼自然(しぜん) 「しぜんと」「しぜんに」の形、または単独で副詞的にも用いることがあった。

◇『太平記』二「六義数奇の道に携らねども、物類相感ずる事、皆自然なれば」
◇「自然に戸が開く」
◇『枕草子』二六七「しぜんに宮仕所にも、親・はらからの中にても、思はるる思はれぬがあるぞいとわびしきや」
◇「そう考える方が自然だろう」
◇「自然なやり方」
◇『西鶴織留』五「自然また請出す事も有」
◇『西鶴諸国はなし』二「らくちうをさがしけるに、自然(シゼン)と聞出し」

◆明治期になって、西洋語「nature」に対する詞として「自然(しぜん)」が用いられるようになった。この間の経過と、「自然(じねん)」と「自然(しぜん)」の混同と混合の様子は『翻訳語成立事情』(柳父章著、岩波新書189、1982)の「自然」の項に詳しい。「自然淘汰」は西洋では「自然による淘汰」であるが、日本語の中では「おのずからの淘汰」とつかまれてきた。著者がこの混合から日本語としての「自然」の新しい意味が形成されていくことを述べているのは慧眼である。

この書の中で森鴎外や中村光夫らの用いた「自然」は西洋語「nature」の翻訳語であり、その「nature」にはいわゆる「精神」を含まないとされる。「精神」はこの意味で「自然」に対立するものとしてこれもまた翻訳のために導入された語であり、したがって「自然」が「精神」を含まないのは当然である。

▼自然(しぜん)

◇「自然食品」この場合の「自然」は人工の材料を含まないで作られた製品、ということであり、この「自然」は「しぜん」である。

◆西洋語の「nature」はじつはその意味を大きく転換している。明治期の「nature」は転換後のものである。

ギリシアの「自然」は明治期に日本に入った「nature」ではない。ギリシアは「万物のアルケー(始源、原理、根拠)とは何か」を問うた。その万物こそ「自然」である。ソクラテス以前の初期ギリシャ思想の肝心な点は、それが内因論であることである。根拠は内部に求められた。万物は「水」という「もの」、「無限のもの」、「気息(プネウマ)、空気(アエール)」という「もの」なのである。万物の根元としてとらえられたさまざまの「もの」が、内部の要因によって生じて発展することへの驚きと、その輝きを見た喜びと、世界の意義を聞きとった感動にあふれている。

ものが輝いて躍動し、人を惹きつけ生々流転する。もののすべてがギリシアの「自然」であった。安藤昌益の「ヒトリスル」「自然(しぜん)」である。

タレス(Thales)(B.C.624?〜B.C.546頃)は、「万物の根元は水(ヒドール)である」と主張した。タレスは紀元前585年5月28日に生地・ミレトスに起きた皆既日蝕を予言し、エジプトの実用幾何学を輸入して理論的な幾何学研究を始めた(ピラミッドの高さを測量した)。タレスの弟子のアナクシマンドロス(Anaksimandros)(B.C.610〜B.C.540頃)は、「万物はのアルケー(始源、原理)は不死不滅で永遠に自己運動するものであるとした。ト・アペイロン(無限のもの、無制約なもの、無限定者)である」、「生起する事象は、時の秩序に従って、相互にその不正をあがなわなくてはならない」といった。タレスの孫弟子になるアナクシメネス(Anaksimenes)(B.C.546頃盛年)は「万物は気息(プネウマ)、空気(アエール)であり、万物は空気の濃淡によって生まれる」といった。

プラトン以降の西洋思想は、初期ギリシャ思想のアルケーとしてあげられた根本物質が生きて動き千変万化するという自然学説を「物活論(hylozoismus)」と呼び、初期ギリシャ思想を初歩の幼いものとして相対化した。そこには貴族思想がある。生産労働を奴隷に任せる以上、作るべきものの理念と実際の作られるものが分裂する。設計図を書くものとそれにもとづいて作るものの分裂である。この分裂のなかで初期ギリシア思想の「もの」は見失われた。このように古代ギリシア哲学は、プラトンの時代に大きく転換した。

そしてその分裂は今日まで続いている。プラトンの時代にはじまる西洋世界は、アラビア世界を経由して近代西洋で意味の転換を成し遂げる。見るものと見られるものの分裂、イデアと現実の分裂、その極限値として精神とそれに対する自然。それを観念で統一する神と人間と自然の階層的秩序の思想が生みだされていった。背景には、世界の植民地化と奴隷貿易を正当化する思想があった。

十三世紀、南フランスに栄えたカタリ派の思想を軸とする地中海文明は、古代ギリシアの自然観をもつ最後の文明であった。北方のフランスはアルビジョワ十字軍を派遣、これを残虐に制圧する。そしてアラブ世界への十字軍と一体に植民地支配と奴隷貿易の時代に入る。

精神と自然を分けそこの神をおく二分法は方法であり、この方法のゆえに自然を対象化して探求し、そこから産業の資源と動力を得ることが可能になった。こうして産業革命は西洋に起こり、近代資本主義が生みだされた。自然を人間と全く独立無縁なものとして客体化し、これに外から実験的操作を加えて科学的に把握しようとする、近代の実証主義的態度の形而上学的源泉がある。

こうして、資本主義を生み出し産業革命にいたり、帝国主義として世界を支配してきた。その世界観の土台としての「自然」が明治期日本に伝わるのである。その「neture」は人間と対立するものとしての自然であり、近代の二分法の極限値としての自然であった。

◆近代の西洋文化にはこれが方法であることを自覚し「方法としての自然」を理解するものがいた。ところが近代日本の知識人はこれが方法であることに気づかず真に受けたのである。

資本主義は二十一世紀に至って一つの極限に達し、このままでは世界が立ちいかなくなる。しかし活路は未だ見いだされていない。この時代には再び「もの」を考える土台に置き、方法としての神を超えることが求められる。

自然観をふたたび転換し、内からの力で生れ発展するものの世界を、自然と定義する。


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