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近代の造語

「思考」

「ひとは物事を認識し、思考しつつ、個人として社会の中で生きている。」これはある哲学啓蒙書(『現代哲学の名著』、中公新書、2009)の一文である。この一文をそのまま英語などの西洋語に翻訳すること難しくない。逆に日本語としてみるなら「物事」、「認識」、「思考」、「個人」、「社会」などの詞(ことば)は、日常的に用いられる日本語とは断絶している。人が日ごろものを思い考えごとをしているのは、「物事を認識し、思考」しているのと同じことをしているのか。あるいはほんとうに「個人として」生きているのか。

赤瀬川原平さんはあるところでいっている。「難しい言葉を使うのは簡単。芸術とか国家とか権力とかって使っちゃうと、文章としては収まる。だけど、おしまいだなと。」(『神戸新聞』2010年3月19日)」同じことがいえるのではないか。

例えば「思考」を取りあげる。「思考」は明治時代に、英語の「thinking」、フランス語の「 pensée」、ドイツ語の「Denken」等の翻訳語として作られた詞であるといわれる。しかしよく考えればこれは翻訳ではない。翻訳というなら、すでに日本語のなかに「思考」という言葉があって、それが「thinking」とほぼ同じ意味であることが先行していなければならない。しかし「思考」は「thinking」に出会うまでは日本語の中にはなかった。だから翻訳でもない。まさに造語であり、漢字造語である。このような漢字造語の中には仏典からの借用であることもある。それでもそれは意味において別物である。

日本語のなかで「思考」が必要になる必然性はなかった。また新たに西洋に出会って作られた詞であるとしても、それまでにあった言葉である「思う」や「考える」の意味までを含めて作られたとはいえない。

その結果、日本語の辞典はその意味を述べることができない。『広辞苑』(第三版)では「思いめぐらすこと、考え」とあり、『岩波国語辞典』(1963年)では「考え、考えること」とある。しかしこれらは言いかえただけであり、意味を定義しているとは言い難い。

『岩波小辞典・哲学』(1958年)では「思考」が「広い意味では人間の知的作用を総括していう語であるが、通常は感性の作用と区別され、概念、判断、推理の作用をいう」とされている。しかしこれでは「思考」を、「感性」の否定と、「概念、判断、推理」という別の漢字造語への置きかえている以上のことはなされていない。

「思考」は「思」と「考」からできている。では日本語の「思う」と「考える」は並列して一つの単語を造れるような意味なのであろうか。

甲「あなた本当に私を思っているの」
乙「ほんとうに思っているよ」
甲「だったらもっとちゃんと私のことを考えてよ」

この端的な例はいくつかのことを教えている。

日本語では「思う」と「考える」は別の意味を担うものとされている。日本語の全構造のなかで「思う」と「考える」は異なる位置と役割を担っているのである。「思う」のは「もの」であり、「考える」のは「こと」である。岩波国語辞典(同上)では、「『考える』は知的な面に限られるが、『思う』は情的・意志的でもよい」と注釈されている。が、そういう言葉の意味する範囲の大小という量の問題ではなく、日本語の総体としての構造のなかの位置に質的な違いがある。したがって「思」と「考」を並列するかぎり、日本語のことわりから「思考」という言葉を定義することははできない。

「思考」は西洋語に根拠をもつ。西洋語を知っている日本人はいざとなれば西洋語のなかに立ちかえり西洋語で「思考」を定義する。しかし日本語の問題としてそれでよいのか。

さらに「思う」と「考える」には深く考えなければならない問題がある。上の会話の甲は「人間は、あるものを本当に思うのなら、そのもののことを本当に考えるはずだ」ということを主張している。つまり「もの」と「こと」は別の意味と構造をもつが、一方また、深く因果の関係がある。この関係を掘りさげることがなされなければならない。日本語の構造における「もの」と「こと」の位置と言葉の機能がさらに深めなければならない。

「思考」再訓

このような営みこそが「哲学」という学があるのならその仕事でなければならない。ここではそれをも疑うところで考えたい。日本語には長い訓読の歴史がある。中国語を「漢文」として受けとめ、日本語の文法に従って訓点をつけ、意味にしたがって読む。このようにして漢文を日本語として読んできた。「不可侵」を「おかすべからず」と読む類である。漢字を「春」を「はる」と訓じ、「春風」を「はるのかぜ」と読むことを訓読みという。このことで「はる」は「張る」と同じく命がみなぎっている状態につながり、詞の意味が日常の言葉につながる。

ここから、「訓読み」はむずかしい言葉などをわかりやすく説いて聞かせることも意味するようになった。江戸期には「友達のよしみに訓読して聞かせよう」(『滑稽本』和合人・初)のような例もある。だがひるがえって考えるに「ひとは物事を認識し、思考しつつ、個人として社会の中で生きている。」を訓読することはできるだろうか。

「訓」と何か。文字が表わしている意味、字の持っている意味である。『古事記‐序』に「已に訓に因て述べてあるは、詞心に逮(およ)ばず」のがそれである。漢字のもっている意味に当たる日本語のよみ。それは漢字語の意味を日本語で解釈することであるが、その行為は同時に日本語による漢字語の定義でもある。こうすることで、中国文明を日本語世界に取り込んできた。

これは長い時間をかけて培われた日本語の智慧である。ところが近代漢字造語はじっくりと訓じる暇がなかった。この智慧に立ちかえる暇がなかった。それでも「鉄道」「鉄橋」「電話」などの言葉は新しく登場してきたものに対する命名である。その言葉の意味を説明することができる。しかし「思考」「認識」「個人」「社会」といった言葉は命名ではない。翻訳でもなく造語である。ではその言葉の意味を説明することができるだろうか。意味すべきことが世界にありその中で分節され、そして言葉ができたのではなく、西洋にあって日本にないものに言葉だけ作って翻訳文の中に置いたのであるから、それは難しい。

そもそも「思考」のような近代造語は訓じられたきたのか。訓じることをはじめから断念してきたのではないのか。改めて「思考」を再度定義し直すという意味で再訓することはできるのか。

そこで改めて「思考」を日本語の中で訓じようとすれば、それは次のようになる。これしかないし、またこれは可能な訓である。

ものに思いを掛け、もののことを考える
これを「思考」の訓とする。

「もの」はいわゆる物質ではなく、人間が言葉によって切りとろうとするすべてである。それに思いを掛ける。「思い掛けず」と言うこともある。「思考」はそうではない。思いを掛けるのである。そしてもののことわりを開く。それが考えることである。


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