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近代語再訓

近代造語に向きあう

近代日本語、とりわけ西洋文明移入のために作られた漢字造語を訓じ直す。構造語による位置づけを確定する作業を進める。構造語の再定義が先である。それなしに近代造語の再訓はありえない。この作業は「日本語を純化」しようとするものではない。純化すべき規準としての「本来の日本語」などは幻想にすぎない。言葉の意義を外に求めない。そうではなく、現代日本語の構造そのもののなかで構造語をとらえ直し、それを土台に近代造語を再訓する。これが方向である。

近代日本語世界では、言葉を内部から定めなかった。翻訳のために漢字語を作り出し、最終的な意味の定義は外国語に求めて、それも面倒になればカタカナや横文字を中にはめ込んで済ますことで、固有の言葉を育てなかった。日本語の内部から近代造語を吟味し一つ一つの言葉の使われ方の事実とその本質のなかにどのような矛盾と問題があるのかを解明し位置づける。内からの必然性がなく外からの理由で造られた言葉を、外因によっているからと言って批判するのではなく、内部から日本語自体の中から吟味し批判しなければならない。

「日本語」と名づけられるこの言葉には、「日本」という言葉の作られたときよりもはるかに昔からの、長い言葉としての歴史がある。長い時のなかの現在である。青空学園では、この今に立って、日本語の現状を可能なかぎり引きうけ、次に繋ぐためにできることはしておきたい。

近代化の過程そのもの

このような作業自体は、その言葉の用いられる人間世界の中での近代化過程そのものである。この過程を経ない近代は、まだ本当にには人間が成立していない。固有の言葉の構造語で考えることができるようになってはじめて近代である。

西洋もまたかつてこの過程を経てきた。ラテン語の支配から、フランス語や英語が固有の言葉として自立することが、西洋近代の成立であった。この歴史はより深く大きく今日の問題である。西洋近代は非西洋の支配の上に実現したものであり、そのゆえに真の普遍性を欠いていた。西洋はまだそのことを知らない。非西洋の言葉は、大なり小なり日本語と同じ問題をかかえている。われわれ近代日本語の苦しみは、一つの貴重な経験である。

この百数十年、日本語世界はこの西洋文明にどのように対するのかということを主なる課題として、そのことが一時も念頭から離れないという風にしてやってきた。しかし反・西洋の段階も同時に終わった。われわれは西洋の苦悩も引き受ける新しい知とそのこころざしをうちにもたねばならない。

世界は固有の文化がともに輝く深い普遍の場をめざす。その場こそ新しい段階の文明である。西洋に端を発する文明はこうして新しい世界文明にならなければなりません。多極化を経て、そのうえで極を超えて、新しい人類的な場としての文明に至らざるを得ない。アジア主義もまたアジアの固有性をそのままに新たな普遍性をめざさなければならない。

転換の時代は、西洋にはじまる文明のもとで,しかし拡大を旨としない人間の生き様としての文化を生みだし、多くの人々と民族が互いに尊びあう新しい普遍の場としての文化を生みだす。これを模索する時代への転換。これが現代である。しかしそれは言うは易く為すは難いことこの上なく、すべては未だ可能性に過ぎない。にもかかわらずこの転換は必然である。近代語の再訓はこの転換の時代に不可欠である。

日本語の来歴

そもそもこの日本語はどのような歴史の言葉なのか。これは再訓を考えるときに、それを補足するうえで必要である。

およそ5000〜3000年の昔、日本列島弧には現代日本語の基層となる各系統の縄文語を母語とする文明が開けていた。この時代、東北地方は温暖であった。青森県三内丸山遺跡は今から約5500年前〜4000年前の縄文時代の集落跡である。長期間にわたって定住生活が営まれていたことが知られている。近年の発掘調査で、竪穴住居跡、大型竪穴住居跡、大人の墓、子供の墓、盛土、掘立柱建物跡、大型掘立柱建物跡、貯蔵穴、粘土採掘坑、捨て場、道路跡などが見つかった。膨大な量の縄文土器、石器、土偶、土・石の装身具、木器(掘り棒、袋状編み物、編布、漆器など)、骨角器、他の地域から運ばれたヒスイや黒曜石なども出土している。ヒョウタン、ゴボウ、マメなどの栽培植物が出土し、DNA分析によりクリの栽培が明らかになった。

縄文時代は多用な人間集団が各地域に独自の生活を刻んでいたときである。生活は記憶されそこに一定の歴史が生まれていたかも知れない。日本列島弧に多様な、しかしまたモンゴロイドとしての共通性をもった、さまざまの言語と文化が存在し多くの交流があった。

このようなときに、弥生の文明が起こったのである。 民族学博物館の研究によれば、弥生時代は紀元前900年代に始まる。それは以下の事実によって結論された。九州北部の弥生時代早期から弥生時代前期にかけての土器(夜臼U式土器・板付T式土器)に付着していた炭化物などの年代を、AMS法による炭素14年代測定法によって計測したところ、紀元前約900〜800年ごろに集中する年代となった。考古学的に、同時期と考えられている遺跡の水田跡に付属する水路に打ち込まれていた木杭二点の年代もほぼ同じ年代を示した。そして、この時代に併行するとされる韓国の突帯文土器期と松菊里期の年代について整合する年代が得られた。

日本語学者・大野晋の言語学的、人類学的研究によれば、この稲作は鉄器と灌漑の技術をもったタミル人によってもたらされたのである。紀元前1500〜1000年、アーリア人がカイバー峠を越えてインド大陸に進出した。インダス文明を築いたドラビダ人は、南方デカン高原へおされ、そのうちのあるものは海にのがれ、東南アジア地域に拡散した。あるものは日本列島と朝鮮半島南部にまで至った。またあるものは揚子江をさかのぼり、雲南地方にも至った。雲南のいくつかの民族の習俗で日本の習俗と似たものが多いのは、起源を同じくするからである。タミル人は鉄器と灌漑と水田耕作の技術をもっていた。稲そのものは縄文時代から栽培されていた。そこに新たにタミル人が稲まで持ちこんだのか、あるいは縄文時代から在来する稲を水田で耕作し始めたのかは今後の研究課題である。

日本語もまたこのような大転換期を経て混成語として熟成してきた。大野晋によれば,今日につづく日本語は、縄文語のうえに、紀元前900年頃タミル語が重なり、混成がはじまった。それから1000年後の一世紀ごろには、縄文語に起源をもつ言葉とタミル語に起源をもつ言葉との混成が一定の熟成を遂げていた。混成語の成立である。さまざまの来歴と言葉の違いがさまざまの協働体を区別していたと考えられる。その混血と鉄器文化が弥生時代を形成した。

現代の日本人女性のミトコンドリアDNAの解析から、起源場所が世界の九箇所で確認されており、九箇所の多くは中央アジア周辺に分布している。その内の一ヶ所だけ南インドにある。従ってやってきたタミル人は比較的少数であった。技術とそれに伴う言葉と世界観が、それまでの縄文の世界観と出会いそして熟成し、在来の稲と人間の間に広がったのだ。タミル人が日本列島弧に入ってきたということは、韓半島南部にも入ったということであり、韓半島南部と九州北部、西日本は同一の文化圏が形成されたのである。

われわれは現代日本語の起源に関して大野晋の学説とその論理的帰結を支持する。これは発見された客観的な歴史的事実であり、考古学はこの事実を基礎に書き直されなければならない。

こうして日本列島弧は数千年の昔から多くの民族や文明が行き交い興亡をくりかえした来た。混成語・日本語は次のような段階を経て形成されたと考えられる。

縄文の言葉と弥生の言葉が出会い熟成して一つの混成語を生みだすのに千年のときが必要だった。平安の時代から再び千年の時をへて江戸末から明治期の西洋との出会いである。そこで近代日本語の試行錯誤と苦しみがはじまる。近代日本語の前提として、このような混成と熟成のときがあったことをおさえておかねばならない。


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