◯「ひと[hito]」の「ひ[fi]」は「ひ(霊)[fi]」の[fi]とおなじ。「と[to]」は「と(処)」、つまり「そと(外)[soto]」の[to]と同じく場所を意味する。「ひと」はいのちの根拠である「ひ(霊)」がとどまるところ。これが日本語が人間をつかんだ原初の形である。
◆ この世界を生成するいのちの根拠がこの世界に現れるあり方。それが人である。近代にいたり,労働し言語をもつ生命として人が「人間」として再発見された。そして今日、近代の人間そのものが問われている。
人が生きてはたらくことは、ものとひととのことわりあいそのものであり、世界との語らいである。人がこの世界で一定のあいだ生きること自体、ことわりである。いのちあるものとしての人は世界からものを受けとり生きる。それがはたらくということである。直接のもののやりとり、つまり直接生産のはたらきこそ、いのちの根元的なはたらきであり、その場でこそもっともいのちが響きあい輝く。人と人はことをわりあい力をあわせてはたらく。つまり、人は語らい協同してはたらく、つまり協働することで人になる。
▼動物に対するものとしての人。◇『古事記』「一つ松比登(ヒト)にありせば太刀佩けましを衣きせましを」◇『万葉集』八九二「わくらばに人とはあるを、人並みに吾も作るを」◇『紫式部日記』「人はなほこころばへこそかたきものなめれなど」◇『枕草子』「鸚鵡(あうむ)いとあはれなり、人のいふらんことをまねぶらんよ」
▼一人前の人格をもつものとしての「ひと」。▽具体的な人を表す場合。◇『其面影』二葉亭四迷「人に由って大違ひ!全然別の人のやうに成るンですもの」◇『徒然草』八十「人ごとに我身にうとき事をのみぞ好める」
▽抽象的に人というもの一般を表す場合。◇人の意見をしっかりと聞け。◇『万葉集』八九二「あれをおきて人はあらじと誇ろへど」◇『源氏物語』夕顔「下が下と、人の思すてしすまひなれど」◇『徒然草』一四二「いかがして人を恵むべきとならば」◇「人となり」◇「人にすぐれた腕前」◇『ある日の対話』島崎藤村「あんな美しいものを作曲するには、人を得なくては」
▽人間の品格。人柄。人品など人としての内容そのものを意味する。◇『源氏物語』帚木「人もたちまさり、心ばせまことにゆゑありと見えぬべく」◇「人がよい」「人が悪い」「人でなし」◇『枕草子』一一九「烏帽子のさまなどぞ、少し人わろき」◇『枕草子』二八「おほかた、人の家のをとこ主ならでは」◇『多情多恨』尾崎紅葉「君は然云ふ不実な人物(ヒト)とは思はんだった」
▼人を一般的に示す。漠然と示す◇『伊勢物語』四八「うまのはなむけせんとて人を待ちけるに」◇『古今集』四〇七「わたの原八十島かけて漕ぎいでぬと人にはつげよあまの釣舟」◇『万葉集』五六二「暇なく人の眉根を徒に掻かしめつつも逢はぬ妹かも」◇『源氏物語』薄雲「いたづらなる野辺の虫をも棲ませて、人に御覧ぜさせむと思ひたまふるを」◇「うちの人」、「人を使う」◇『平凡』二葉亭四迷「人を入れて別話を持出したから」
※ 「ひと」は資源ではない。
※「いのち」は近代資本主義のなかで再発見される。ものを生産し価値を生み出す労働の源泉としての「いのち」である。資本家の側からいえば「殺さず、生かさず」の内容としての「いのち」である。そして「ひと」もまた再発見される。それが、生産活動と資源としての「ひと」である。
今日、日本では「人的資源」という言葉が用いられる。中央教育審議会は一九七〇年代「人的資源の開発」を言いはじめ、それが今日に続いている。「人的資源」とは生産活動に必要な労働力ということである。人を人として育てる教育から、人を資源として使えるようにする教育への転換がはかられてきた。教育を生産活動の一部とする考え方が表面化する。
もとより近代の学校制度は,産業技術を習得した人の育成を目的にしている。その時代の文明とそれを支える技術を習得することは必要である。人が何らかの生産につながることは、人の存在条件そのものである。だから仕事を求める人すべてに仕事を保障する。それは人の尊厳を尊重するということだ。
「人的資源」という考え方がいきわたることで、この関係は逆転させられ、正面から人間は「資源」であるという主張が行われはじめた。
しかし、人間は資源ではない。人そのものとして、まじめに働き、ものを大切にし、隣人同僚、生きとし生きるもの、たがいに助けあって生きてゆく。それが里のことわりの教える人のあり方である。経済は人間にとって目的ではない。あくまで方法である。
現実にも、経済を第一とする世のあり方に対し、協働の力で人を第一とする世を求める動きは、ますます深く広がっている。経済原理から人間原理へ、世界はいま大きな転換期の黎明期にある。