なぜ言葉の研究を専門とするものではない私が、このような言葉の定義という問題に出会い、そして言葉にかかわる営みをはじめたのか。
私はながく高校生に数学を教えてきた。前半は、卒業生のほとんどがそのまま働いてゆく高校で、いろいろな歴史的な差別や社会的な要因で学力がついていない生徒の高校受け入れと、その子らに学力をつけ、そしてその進路を保障してゆくことが仕事の中味であった。後半は受験業界で働いた。小手先の方法ではなく、本当の考える力をつけることで、生徒の可能性を引き出し、進路をひらくように教えてきた。
学校にせよ塾などにせよ、大切なことは、そこが教えるものと生徒の出会いの場であるということだ。逆にいえば、学校にせよその他の機関にせよ教育にかかわるところは、教師と生徒が人間として出会い、切実な交流を通して、互いに学び成長するところでなければならず、それを提供する場であってこそ、その存在に意味がある。
このような立場で高校生に接してきて痛感するのは、言葉の力の衰えであった。言葉とは、存在を分節してつかむことであり、同時にまた考えることそのものであり、それをまとめ話し書いてゆくことである。この力がおしなべて弱い。何度も何度もこの事実に出会ってきた。
日本の学校での言葉にかかわる教育を見ると大きな欠陥がある。自らの言葉を意識して対象化し、その意味を問いなおしてつかみ、つかんだ意味において考えたことを述べる、そのような訓練はほとんどなされてはいない。教育にかかわるものもまた、言葉の教育の重要性を知っていない。あるいは教員養成課程でそれを教えられてはいない。
このような問題に出会うなかで、私は、自分自身が高校大学と現代日本語への違和感を強くもってきたことに改めて気づいた。高校時代に読んだ哲学の本の中に「思考する」という言葉が出てくる。しかし高校生の自分には「思考」がどのように頭を働かせることなのか分からなかった。「思う」はこうだと分かる。「考える」も分かる。何より日頃違和感なく使っている。だが「思考する」は分からなかった。
「思う」と「考える」に意味の重なりはない。「思う」と「考える」の二つがそろってはじめて「真(ま)」となる。この二つの間には「間」がなければならない。
ところが近代日本語では、これをそのまま繋いだ「思考する」という言葉を作った。西洋では真は「一」であり、これに関する英語「think」一つである。この翻訳語として「思考する」を作った。しかしこれは、日本語の構造に根ざした言葉ではない。「思考する」では、「思」と「考」に間がなく、その結果ここには真がない。
思うと考えるは別個な言葉であり、その不即不離の関係の中にこそ、日本語で考えることの奥行きがある。ところが近代日本語は「思考する」という詞を作った。これでは、高校生の私が、「思考する」がわからないのは当然である。
かつてドイツに留学した日本の哲学徒の部屋の掃除に来たメードが、窓をあけるときに「aufheben」と言った。「aufheben」はヘーゲル哲学の基礎概念で「止揚する」と訳している。それで「ドイツではメードまでこんな哲学語を使うのか」と感心したという話がある。しかしこれは逆で「aufheben」は誰もが使う日常語なのだ。それを抽象して基幹の言葉に育てたのがヘーゲルなのだ。
ドイツに学ぶのなら、何よりこのような日常語と哲学語の関係をこそ学ぶべきであった。だが、近代日本は、西洋の知の肝心なところは学ばず、結果のみを漢字語に翻訳して移入した。ここに近代日本語の基本問題がある。「思考する」もまた「denken」等の翻訳語として作られた。
このような近代日本語のあり方にこそ、高校生の考える力が弱い根源がある。ここを何とかしていかなければ、高校生の言葉の力が衰える一方である。それどころか、日本語の世界は次の時代には人間の言葉としての役割を果たせないのではないか。このように考えた。
これは言葉の専門家や教育にかかわるものだけの問題ではない。言葉を意識し、その意味を問い、そして言葉をいつくしむことが、一人一人の日頃の営みとして根づかなければならない。そうであるのなら、近代日本の体制の中では言葉の素人とされる者が言葉に向きあうことには意味がある。これが私が言葉にかかわる根拠であった。
人間と言葉について改めて少し考えよう。なにより言葉は大切にしなければならない。人間は音節のある言葉をもつ。このことにおいて他の生きものと異なる。この言葉によって人は世の中に生きている。生きものとしての人は、この言葉をもつことによって、世にある人間となる。言葉をいつくしむことは、人間をいつくしむことに他ならない。
定義集で言う「言葉」は、「日本語」というように一つと考えられる全体を示すときも、個々のいわゆる単語や文などを示すときもある。あえて同じ「言葉」という言葉で表す。それは、言葉の立ち現れる場を大切にし、その場に働きの結果を言葉と表すからである。
さて、言葉はともに伝わるからこそ言葉である。ゆえに言葉はかならず一定の広がりをもって成立する。人をして人間としている言葉、それをその人の「固有の言葉」と言おう。本定義集を制作する青空学園管理人の固有の言葉は日本語と言われる。
日本語をもういちど人間の言葉として甦らせるための基礎作業をする。これが再定義の意味である。つまり次の三項目からいま日本語は再定義の必要な段階にあると考えてきた。
第一は、基本的な言葉の再定義を経なければ、日本語では、立ちかえるべき根拠から考えることができなくなってゆくからである。
言葉は、言葉の構造を支える根のある言葉から、必要な言葉を定義してゆかなければならない。しかし近代日本語はそのようにはなされなかった。その結果、いわゆることわりの言葉が高校生にとって内からの言葉となりがたく、納得した論証を構築することができない。
これに対して、数学教育に携わってきたものとしてなし得ることはしなければならない。このように考えた。
第二は、世の人々の中においていえば、近代日本語による近代主義的な人と人の関係、あるいは組織は、人々の実感と切り離され、その言葉は人を動かし得ない。
人々の共感と共有を可能にする言葉で根拠を問うこと、これを可能にする言葉を育てる。日本語はこの過程を実際に経なければならない。その営みが積みあげられる言葉にならねばならない。
それがその言葉を含む世の奥行きと経験の深さにつながる。そのためには、やはり日本語を再定義し、構造に根をもつ言葉を深めることが、前提である。
第三に、五千年以上前にさかのぼる縄文文明、三千年前にはじまる弥生文明、その混成語として形成されてきた日本語は、言葉としての構造と、その構造によって支えられるものの見方考え方をもっている。
現代はそれを自覚的に取り出さねばならないときである。それなくして、継承すべき近代もまたありえない。私は、本当の意味での愛郷主義をめざす。
日本語において、里のことわりが人びとの手にとりもどされ、着実に生きる場としての新たな世が、近代の果てにおいて、いま歴史が求めることである。定義し、再び生活し働き生きる。そしてまた言葉を見直す。この営みが世に生きるものが同じくする営みとなり、そして定義することがまた、そこで人間が生きる方法となる。われわれの営みが、ささやかであっても、新たな世のいしずえに生きることを願っている。
以上である。
世は変転する。新しい技術があらわれ、世のしくみが動いてゆく。人の考えることもまた、大きく変転してゆく。このとき新しい言葉が必要になる。新しい言葉は、それまでの言葉の内から、経験を裏づけにして意味を定めてゆかなければ、言葉たりえない。また深く考えることもできない。
三にまとめた考えのうえに、この十年来「定義集」を試みてきた。それをすべて再校訂し、増訂する。なぜいまなのか。その直接の契機は二つである。
第一は、2011年3月の東京電力福島原子力発電所核惨事である。これは近代日本の結末として起こった惨事であり、今後ますます惨事であることが明確となることであった。
この核惨事は、日本語のことわりと断絶した近代日本語に支えられた日本国の官僚制を中心とする無責任体制が生みだしたものであった。これをのりこえるためには、近代日本語をこの近代の経験を通して再点検し再構成することが不可欠だからである。
ドイツ哲学のあり方を知らない日本の西洋学者の言葉が、いわゆる霞ヶ関用語、原子力村の言葉の基礎にある。
第二は、2011年10月の『古典基礎語辞典』の発刊である。編集者の故大野晋先生は、弥生時代の日本語が、タミル語が原日本語と出会って形成されたものであることを明らかにされた。
しかし、日本語学のいわゆる学会では一貫してこれが無視されてきた。にもかかかわらず先生の見出された、日本語と日本列島弧の文明が、いかに深くタミル語とそれとともにもたらされた水田耕作稲作技術に依拠しているかと言う事実は、歴史的真理である。『古典基礎語辞典』がこの東電核惨事の後に世に出たことは、偶然とはいえ、そこに大きな歴史的必然性を見出すことが出来る。
以上がなぜいまなのかの理由である。
かくして、東電核惨事の経験を含む近代の経験を、『古典基礎語辞典』に照らしあわせ、それによって日本語を再定義することが、われわれの課題となった。
明治以来、日本語世界は大急ぎで言葉を作り、走りに走ってきた。そしてとうとう東電核惨事に至った。核惨事は、もういちど、日本語を前において、しくみを作っている基本的な言葉を見直し、それを踏まえて、近代日本語を再点検することを求めている。青空学園は核惨事をそのように受けとめている。
言葉を定義するというのは、人生の経験として学んだ言葉の意味や意義を、辞書を通して古人の用法と照らしあわせたうえで、もういちど自分の言葉で書き直すことである。これを、言葉を拓き耕すことと言おう。
一つ一つの言葉を味わいながら、相互にその意味を書き定めてゆく。言葉を拓き耕す営みが、つね日頃の人々の営みとなることを願っている。そして、どんなことも、みずから納得できるまでその根拠を問い、人間として許しがたいことに対しては、決然行動する。
言葉の意味を定めてゆく営みこそ、世の中で人間の心をもって生きる礎であり、深く言葉に根を下ろしたのものの言葉をこえたつながりこそ、新しい世のいぶきであると確信する次第である。
言葉を拓き耕し続けよう。言葉において深く根づく人々こそ、言葉をこえて結ばれる。日本語のことわりにおいて考え、生きんとするものがいるかぎり、希望はある。新たな世の形ができるまでには、さらに困難な段階を踏まねばならない。だがそこに人間の再生がある。日本近代百年の苦悩は新しい時代の肥やしであり糧であり、新しい時代の深い普遍の礎である。