◯[kataru]は[kata-ru]である。[kata]は「型」でありその内容としての「こと」[koto]である。[ru]はそれを共有する状態に置くこと。[kata]自体は協働体の営みをあらわし、[ru]はその営みの経過と、その結果として現在の状態になることを表す。
「かた」は「こと」に由来する。『名義抄』ではアクセントが異なるとしている。これは語源が同じであるが、時代の中で意味を分岐させようと言うときに起こる。
◆「もの」の「かた」を言葉にすること。「こと」に「する」から「かたる」である。
※タミル語<katai>由来。
※協働体が協同の営みによって今に至る歴史があり、歴史を歴史としてその成員が自覚するための行為を語るという。これを基層の意味としている。基層が、協働体の営みであるから、語られる「もの」は、語る人とそれを聞く人の間に共通して存在しているか、または共通に存在すべきもの、語られることによって現れるべきものとして、思われている。ものを共有しうるところ(場)においてはじめて語ることは成立する。「語る」内容はものに規定されていて、勝手に「語る」ことはもはや語るではない。
※「つげる」は知らせること。「いう」は口にすること。これらと「語る」の使い分けは明確である。「話す」はものを前提にしないで、「こと」をやりとりすること。
※「話す」は室町時代以降用いられる。歴史的には商業の発展に伴い、村のつながりを超えた交流が一般化することによって、「もの」の共有を前提にしないときに「話す」が用いられるようになる。そこからさらに「もの」に規定されないで自由に言うことも「話す」という。「話す」が成立してからは、「語る」がすでにある文や物語を型どおりに節をつけて言うことの意味を強くもつようになった。
「彼は自分の生い立ちを語る」と「彼は自分の生い立ちを話す」は意味が違う。「生い立ちを語る」のは同じ境遇にあるものの間で共感を前提にしているか、あるいは聞くものを共感の場に引き入れる意図があるとき。「生い立ちを話す」は経験を事実として言うことであって聞くものがどのように受けとるかは話す側の意図にない。
「もの語り」であって「もの話し」はない。「作り話」であって「作り語り」はない。 「昔ばなし」であって「昔かたり」はない。
▼もののことを順序だてて話して聞かせる。ことばで述べて相手に伝える ◇『万葉集』二三七「否と言へど語れ語れと宣らせこそ」 ◇『万葉集』二三〇「聞けば音(ね)のみし泣かゆ、語れば心ぞ痛き」 ◇『万葉集』四四五八「君に可多良(カタラ)むこと尽きめやも」 ◇『源氏物語』帚木「朝顔たてまつり給ひし歌などを少しほほゆがめてかたるも聞ゆ」 ◇『源氏物語』橋姫「昔ものがたりなどに語り伝へて」 ◇『平家物語』「見たりける夢のやうを始めより終わりまで委しう語り申しきが」 ◇彼の目が本心を語っている。(「彼の目が本心を話している。」とは言わない)
※語ることは人間の言葉に関わる行為のなかでもっとも基本的なものである。人は自分を語ることを積みあげて人間になる。幼児と母の語りから、青年期に自らを語り自立し、人づきあいのさまざまの関係において語り生活し、また何らかの物語のなかに自らを位置づけて生き甲斐を見いだし、そして年老いて来し方を語る。人間の生涯は語りとともにある。
−【語らう】「語り合う」から派生した。真実・真情をうち明けて語ること。人間は言葉をなかだちに互いに協同してはたらく生命である。「こと」を語り力をあわせる、これが「語らう」の意味である。
語ることは、互いに語りあうことをとおして普遍性を実現する。まず物語の言葉と正面から向き合う。そして互いにことを割りあうことによってその物語のことをわる(理)。こうして物語の底にある共通の基層を掘り起こしてはじめて普遍に向う。 ◇『万葉集』七九四「二人並び居加多良比(カタラヒ)し心そむきて」 ◇『東大寺諷誦文平安初期点』「仏のみ聞き知りたまひて、倶に談(カタラヒ)給ひ」
※長い間自らが部落出身であることを隠し差別に自らをごまかしてきた高校生が、部落解放運動の高揚のなかで、はじめて自分の生い立ちを学校で語る。あるいは、日本名を使い朝鮮人であることを隠してきた在日朝鮮人生徒が、自分を語り本名を取り戻す。同じ立場のものがその語りのなかにある甘えを指摘し、話し合い、さらに深く自立する。このような営みは、近代の協同体のなかでくり返し行われてきた。何らかの語りと話し合いをとおした深い共感を制度化した協同体は力をもつ。中国人民解放軍が抗日戦争中制度化した、階級社会での自らの苦難の生涯を語り合う「訴苦運動」もその例である。