◯あることがなるように、心しておこなうこと。行為に関わる「こと」を、実際におこなう。もののある「こと」がなるようにおこなう。ここから熟成して「もの」のある属性が具体的に現れること。
◆これはもっとも基本的な言葉の一つである。「する」という行為は自ずとなることではなく、心があることをしようとしてするのである。心がことをつかみ、人をしてその行為をするようにさせ、「する」が成立する。
ではなぜ「音がする」と「旅をする」が同じ「する」なのか。これは混成語としての熟成の結果である。「旅をする」は「旅」という行為を表すことを実際に実行することを意味する。「音がする」は、「もの」のいろいろな属性のうち「音」という属性が現れる(一般的に「なる」)ことを意味する。もののある属性が現れ現実になることが基本である。
この基本が二つに分化した。「音をする」「旅がする」とは言わない。「もの」そのものが属性を表すときは「[属性]がする」といい、話者が意志を持ってことを行うときは「何々をする」という。
※タミル語<cey>に起源(e〜i 対応)。
▼あることが実現するように意志をもってことを行う。 ▽ある動作や行為を行う ◇『古事記』下・歌謡「弾く琴にまひ須流(スル)女常世にもかも」 ◇『万葉集』二「登り立ち国見をすれば」 ◇『万葉集』三六二七「舟泊めて浮き寝をしつつ」 ◇『万葉集』一七九「佐田の丘辺に侍宿しに行く」 ◇『万葉集』一九三七「ほととぎす妻恋ひすらし」 ◇『源氏物語』桐壺「御方々の御とのゐなども、たえてし給はず」 ◇「旅をする」「野球をする」
▽ある状態を実現する。 ◇「子どもを歌手にする」「値を高くする」 ◇『万葉集』八一七「青柳はかづらに須(ス)べく成りにけらずや」 ◇『大鏡』五「男ならば、大臣の子とせよ」 ◇「彼は会社の重役をしている」「いすを踏み台にする」 ◇『浮雲』二葉亭四迷「見て見ぬ風をしてゐるらしい」
【−むとす】いままさに…をしようとする。現代語でこの的確な言い方は廃れた。 ◇『竹取物語』「鬼のようなる物出きてころさんとしき」
▼ものの動きやけはいが現れる。 ◇『万葉集』三六二四「沖への方に楫(かぢ)の音須(ス)なり」 ◇『古今集』一三九「昔の人の袖の香ぞする」
▽ものの動きやけはいが心の中に現れる ◇『源氏物語』夕顔「あながちにたけたちき心地ぞする」 ◇「そんな気がする」
▽現れた状態を示す。 ◇『源氏物語』桐壺「見てはうちゑまれぬべきさまのし給へれば」 ◇『行人』夏目漱石「とうとう根気負がして黙って仕舞った」
▽もののけはいが現れている(あるいは現れていない)状態が続くことから時間の経過を表す。同じく価値の持続から(金額などを表す語のあとに付けて)…の金額である。 ◇「もう一週間もすればできるのだが」 ◇「しばらくするとまた立ち止まった」 ◇「いくらした?」「千円もする本だった」
▼他の語についてその動作を実際にすることを表す。本来「くしゃみする」のように動作を表す語につく。安易に動詞化ができるので乱用される。
▽本来の用法 ◇「値する」「噂する」「いたずらする」 ◇「がっかりする」 ◇「研究する、「報告する」 ◇「お誘いする」 ◇「甘んずる」「重んずる」 ◇「害する」「信ずる」(「信じる」と熟している)。 ◇「れっき(歴)とした家柄の人」
▽乱用例 ◇「哲学する」、「科学する」、「思考する」、「止揚する」。
※これらは近代になって西洋語の翻訳のために作られた言葉である。「思考する」は「denken」の、「止揚する」は「aufheben」の翻訳語である。
「哲学」、「科学」、「思考」そのもの意味が明確でなくても、作ることができる。そのため、「哲学する」ことがどのような営為であるのか、その言葉の意味が明確でないままに流通した。意味を置いたまま、このような言葉を操ることが、官僚、体制政治家、知識人の業となった。
かつてドイツに留学した日本人の部屋の掃除に来たメードが、窓をあけるときに「aufheben」と言った。「aufheben」はヘーゲル哲学の基礎概念で「止揚する」と訳している。それで「ドイツではメードまでこんな哲学語を使うのか」と感心したという話がある。しかしこれは逆で「aufheben」は誰もが使う日常語なのだ。それを抽象して基幹の言葉に育てたのがヘーゲルなのだ。
ドイツに学ぶのなら、何よりこのような日常語と哲学語の関係をこそ学ぶべきであった。だが、近代日本は、西洋の知の肝心なところは学ばず、結果のみを漢字語に翻訳して移入した。ここに近代日本語の基本問題がある。として作られた。
「する」をつけることで、動詞を作ることができることは、混成語である日本語が身につけた造語法である。さらに、漢字語によって熟語を作ることも、できる。しかし、この二つの方法が組み合わさると、意味が日本語の構造に根ざしたものであるか否かを吟味することなく、造語できる。大急ぎで近代化しなければならなかった日本語にとって、それはいささか安易な方法であった。このようにして作られた膨大な近代漢字語は熟成するのかどうか、それはまだ分からないままである。