そして何が問題であるかがつかめたら自分で考える.まず自分の内部の力で考える.これを内因論の態度という.いま自分の内にある知識と方法で考える.そのことによって解き方を考えたり方法そのものを工夫する力が育つ.
それに対して,すぐに例題の解答に頼ったり,まだ習っていないからできないと放置したり,こういう態度を外因論という.やり方を知らないからとあきらめたり,安易に解答を見たり,解き方を人に聞いたりする.これでは力が伸びない.
内因論が身についている人は,確実に力が伸びる.こうやって一歩一歩その分野を自分のものにし,自分の内に考える力を育てていく.あらゆる教科についていえることであるばかりでなく,人間が生きていくにあたってぶつかるすべての問題に対し,内因論の態度で事にあたる.
そして,そうであるなら,われわれもまた自身の内の力を第一にして,何ごとにも取り組もう.この基本的な態度が内因論である.これは単純なことであり,誰もが否定しがたい.しかし現実には,すぐに人に頼ったり,外部に依存した生き方(行き方)をする人が多い.内因論を,ものの見方や考え方,人間の生き方,そして組織のあり方にまで一貫させるには,意識的な努力が必要だ.
自分にとってより困難に見える道を選び,そして努力の末に解決した.このような経験はこれからの力になる.高校時代の勉強,受験期の勉強をとおして,このような勉強の姿勢,人生の態度が身につけば,それは何よりあなたの財産になる.
自転車は(1)や(2)だけでは絶対に乗れるようにはならない.慣性の法則といっても,乗ってみればこける. 人のまねをしようとして,乗ってもやはりこける.(1)や(2)は乗れるために必要な条件ではあるが,それで乗れるようになるわけではない.必ず(3),つまり実際に乗ってみなければならない.これではじめて乗れるようになる.そうではないだろうか.
しかし,皆さんのなかに(1)や(2)で多くの時間が過ぎてしまっている人はいないだろうか.教科書に線を引いて読む.分かったような気になる.学校の演習で,あたった問題はするが,あたらなかったものは他人がしたのを写しておく.この繰り返しだけで終わっていないか.写したものを試験前に見てもそれは手本を見ただけのこと.実際に問題を解いて試さなければ教科書が本当に分かっているかどうか判断できない.だから必ず問題は自分でやらねば解ける力はつかない.自転車に乗れるようにならない.疲れたりして予習が進まないときに,この話を思い起こして,必ず自分でいちどは解こうとしてほしい.
自転車の例が教えることは,少し痛いのを我慢して練習すれば基本的に皆乗れるようになる,ということである.つまり,すぐにわからなくてもがんばって考え,試行錯誤をすれば,解けるようになる.人生において大切なことは,解けるか解けないか判らない問題に立ち向かうことだ.その点からいえば入試問題は答えがあることがはっきりしているから単純だ.問題をよく読み,方法を考え,実行する,これができればよい.必ず解けるようになる.苦しいときに投げず,自分で問題を解くことをいとわず勉強すれば,かならずできるようになる.
では完走しない,というのはどういうことか.例えば勉強が苦しくなってその結果「(適当にして)行けるところに行こう」と考え,目的実現の努力を放棄することだ.これではどこにも行けない.それが途中で投げるということだ.投げずに,自分の苦手なところを一つ一つ克服していく.これを持続すれば,結果として「合格」がついてくる.
具体的に書きあげた事実に線を引きながら考える.自分の弱点がわかってきたら,弱点克服のための対策とそのための勉強の方向を考える.この弱点に対して,どのような方向でいくのか.今のままでよいのか.何か改めるのか.そして,弱点を克服するために何をするのか.どの参考書をいつまでにするのか.できるだけ詳しく,できるだけ具体的に.そして実行する.一定の期間経てばそこでまた振り返る.次の模試で点検する.これを自分でする.よく模試を見てくれともってくる人がいるが,自分で解析しなければならない.受験勉強とはこれをひとつひとつ実行すること以外にない.焦ることは何もない.やるべきことをやるかどうか.人は人,大切なのは自分との闘いなのだということだ.
高校時代の勉強を通じて,何事に対しても客観的に自分を見つめこのように行動する.そんな人生態度を身につけることができたら,それは皆さんの大きな財産となるし,肝心の大学生活においても力となる.大学に入ってから役立つことを,受験勉強で実行し身につけよう.
ところが近年,この言葉の力がだんだんと低下してきているように思われる.それは,国語の試験の成績がどうかというようなことよりもっと根本的なことだ.言葉で考えることができなくなってきている.数学でも,論述力がおしなべて低下している.
これは何も高校生個人の責任ではない.やはり,世の中と教育の変化のなかで作られたものだ.昔はラジオで劇や漫才・浪曲をよく聴いた.ラジオを聴くと,言葉を受けとってそれから場面を想像して構成する訓練が,無意識のうちに行われる.ところが今は小さいときからテレビの時代になり,場面は向こうから与えられる.これでは言葉から場面を自分でつくりあげる力がつかない.
さらに小さい頃に本も読まなかったら,このような場面構成力はまったく形成されないまま高校生になる.近年,空間図形などなかなかつかめない人や,確率で試行がどのようなものかつかめない人が増えた.言葉の力は,すべての教科の土台であり,人間としての力の土台である.
毎年,センター試験の「国語で転(こ)けた」という生徒がたいへん多い.この数年特に多い.確かに小説の問題は考えにくい.しかし,それでも普通の日本語の力があれば80%は取れる.特に他の教科に比べて難しいものではない.ところが転けたという諸君は45%〜65%しかとれていない.マーク模試では成績も上がってきていたのに,本番では元に戻ってしまったという人も多い.その結果,受験大学の変更を余儀なくされた人もいた.
なぜセンター国語が他の教科に比べて悪い人が多いのか.その理由は,センター国語の技巧的な勉強しかせず,実際に書いて論述する訓練を少しもしないからである.たとえマーク式の問題練習で答えが合ってもなぜ合ったのか自分でわからず,まちがってもなぜまちがったのかがわかる力が,少しもついていない.ほとんどの 3年理系学生の国語の勉強はセンター試験対策だけになり,手で書く勉強がなされない.
読み・書き・計算はいつでも勉強の土台であり,基礎の基礎である.70年代の後半から80年代前半には二次試験で国語を課さないところも,「理科小論文」などを取り入れ論述試験を課すことで「書く」ことを求める試みがなされた.が,共通一次試験の開始とともにそれもなくなった.1980年代前半から共通一次試験・センター試験がはじまり「国語」の試験がマーク式だけになって受験勉強から「書くこと(論述)」が消えてしまった高校生も多くなった.これはセンター試験の最大の弊害で,このことがどんな結果をもたらすか,恐ろしいほどである.
書かなければだめだ.手で考えよ.京都大学では2009年入試から工学部も記述試験に国語が加わることになった.長い間,工学部はセンター試験の国語・英語・社会を2次試験と合計して合否を決めてきた.しかし,センター国語はやはり書かない試験なので本当の言葉の力は量れない.その結果,大学でレポートの書けない学生が増えたのだ.あまりにも言葉力が弱い.これに危機感を持った大学がついに日本語の記述試験が復活した.
それはセンター試験の無意味さと弊害を照らし出す.共通一次試験から30年間,このようなマーク式試験をやってきたが,このような試験がいかに弊害が大きいかがわかった以上,一日も早くこれを廃止すべきである.
日本語は論理的ではないとかいう俗説が今もなくなっていない.それは誤りである.言葉は言葉である以上,論理的である.西洋語の論理と重なる部分と異なる部分があるということだ.言葉の論に沈潜しそれを身につける,これなくしてどの言葉でも論理的な文章は書けない.後から習得した言葉では,母語で考えられる以上のことを考えることはできない.
自分で何か現代文の参考書をさがし努力してほしい.そしてとにかく書く.文章を読んで,四分の一に要約したり,十分の一で大意をまとめたり,二行で骨子を書いたり,一言で表題をつけたりしてみる.昔の高校生は文系理系に関係なく,この訓練を自分に課して,とにかく書いたものだ.これがあればセンター国語で大きくこけることなどない.そしてそれがほんとうの論述力をつける.