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解析学の歴史

学習記録として

長い間,いろいろな立場から日本の高校生の数学教育に携わってきた.教えるうえで学習したことをもとに,仮想学園としての青空学園をはじめて2014年で15年になる.

2000年6月から3年間ほど,同時配メールを活用して,青空学園で『解析概論』の読書会をおこなった.今も自分で読みながら質問をよせてくる人がいる.質問に答えながら定理や例題などを再構成してみると,いろいろ工夫しなければならず,そういう論証の工夫の跡を『解析概論』のなかに再発見することが幾度もあった.『解析概論』の改訂第三版の「序文」には,高木貞治が晩年までさまざまに手を入れていた様子が書かれている.『解析概論』が1938年に出版されたことは,近代数学が日本に根づくうえでたいへん大きなことであった.

しかし,このような名著がありながら,この半世紀,高校の微分積分は指導要領改訂のたびに混乱を深め,なおかつ歴史的に築かれてきた内容との食いちがいを広げてきた.大学人のなかにもそれを指摘する人はいる.が,正そうとする人は少ない.せめて高校段階の微分積分を支える基礎部分について,現在の高校数学とつながる形で再構成しておきたいと考えた.

それで,まず整数の公理から実数の公理とそれを満たすモデルの構成までの骨子を述べる.そのもとで関数の解析論から微分方程式の解の存在定理まで,実数論のうえにはじめから証明をつけてみることにした.

物理現象への適用として,運動方程式から楕円軌道を導く.集合論を基礎にして,数学を物理現象に適用するために,いったいどれだけの準備が必要なのか,それを点検するという観点をふまえて,改訂した.

これらのことはもとより高校生自身には必須でない.が,教える側が,教えている内容の全体をつかんで,教えることを全うしようとすれば,いちどは再構成して確認しておくべきことである.これはそのように考えた私自身の学習の記録である.練習問題やいろんな例もつけていきたいが,今後の課題である.

解析学の展開

人間は長い時間をかけて量の認識を深めてきた.量は二つの側面から深まってきた.一つは,面積,体積そして容積などの加法性のある量である.まず量としてつかみ,量の比較から計量へとすすんだ.アルキメデスの求積法をひとつの頂点に,さまざまの方法が展開されてきた.面積や体積の公式も長い歴史の産物である.

他方,速度,濃度や密度などは,近代に入って瞬間速度と平均速度の関係などの理解が深まり,その本質が局所的な比率であることが理解されてきた.数は何より量をつかむための言葉としてはじまり,数の言葉で考えることをとおして量の認識としての数学を深めてきた.

本質的な発見が今から300年前になされた.そして今日まで,解析学は四つの段階を経てきた.

  1. 第一段階は,ニュートン(Sir Isaac Newton,1642〜1727)とライプニッツ(Gottfried Wilhelm von Leibnitz,1646〜1716)による微分法と積分法の確立である.これを可能にしたのは極限の方法であった.こうして,極限操作を基本的な方法とする数学,解析学が生まれた.

         微分法と積分法はそれぞれ独立に定義される.それが互いに逆の操作であるということが微分積分の基本定理である.ライプニッツは曲線の接線を研究し,ニュートンは力学的な観点から研究を進め,両者はたがいに独立に基本定理の発見に至った.

         ニュートンはこの方法を用いて,なぜ地球の軌道は太陽を焦点の一つとする楕円であるのかを,引力が距離の二乗に反比例し質量の積に正比例することから明らかにした.自然界の秘密の一端を数学によって解明した.

  2. 17世紀から18世紀にかけて解析学は爆発するように発展した.オイラー(Leonhard Euler,1707〜1783)はその中心にいた人である.彼は「無限量の比や総和」の解析を無限解析と呼び,この方法をもとにして解析学を発展させ,変分学を創始.天文学,力学にも大きな足跡を残した.

         その当時は新しい方法によって発見された成果があまりにも豊かであって,級数が収束するかどうかの吟味,極限値の存在,関数の微分可能性,積分可能性などの厳密性の問題にはあまり注意が払われなかった.これらの問題を深く考えたのはフランスのコーシー(Augustin Cauchy,1789〜1857),そしてそれを引き継いだドイツのワイエルシュトラス(Karl Weierstrass,1815〜1897)等である.解析学の基礎づけ,複素関数論の主定理の証明や徴分方程式の解の存在定理の証明, $\epsilon -\delta $論法の整備など,今日に至る解析学の土台が築かれた.

  3. 解析学の根拠を問い,その土台にある実数について深く研究したのはコーシーの次の世代のデデキント(Julius Wilhelm Richard Dedekind,1831〜1916)やカントール(Georg Cantor,1845〜1918)であった.何を根拠として数列や関数における極限を論じることができるのか.収束する根拠としての実数の完備性,その構造はどのようになっているのか.彼らはこれをはじめて考え,実数論や集合論が開拓された.

         カントールの集合論は解析学に根本的な変化をもたらした.デデキントはこの集合論によりつつ実数を研究した.彼の『連続性と無理数』の翻訳が『数について』として岩波文庫にある.高校生が読んですべてがわかるわけではないが,しかし読める.デデキントがどのようなところから実数論を考えていったかよくわかる.彼らは,解析学の基礎を研究するうえで集合をもっとも基本的な言葉として用いた.

  4. 20世紀に入り集合論の矛盾の発見を経て,数学の基礎が問われる.ヒルベルト(David Hilbert, 1862〜1943)はカント−ルを深く理解し,集合論を土台にして数学の基礎を確固としたものにしようとした.その要の問題として連続体仮説と算術の無矛盾性を問うた.

         ところが1931年,クルト・ゲーデル(Kurt Gödel, 1906年4月28日〜1978年1月14日)は「『プリンキピア・マティマティカ』やその関連体系での形式的に決定不可能な命題について」という論文において「ある体系が無矛盾で,かつ自然数の体系を含むならば,その体系は完全ではない」ことを示し,また「数学は自己の無矛盾性を証明できない」ことを示した.この不完全性定理の証明は,ヒルベルトの主張した有限の立場にたつ形式化を忠実に用い,超数学の命題を自然数体系の中に写像して,実現された.

         ヒルベルトの計画が有限の立場に立つかぎり本質的に不可能であることを示した.数学は,ヒルベルトが考えたよりももっと大きく,形式化でとらえることはでききらない,ということをそこから読みとることができる.

         さらにゲーデルは1940年,ヒルベルトの第一問題(連続体仮説)について,集合論のZF公理系(ツェルメロ・フランケルによる公理的集合論の体系)が無矛盾ならば,そこに選択公理と一般連続体仮説を加えても無矛盾であることを証明した.

         1963年,ポール・コーエンはZF公理系に選択公理と一般連続体仮説の否定を加えた ZFC公理系ても無矛盾であることを証明し,ゲーデルの結果と合わせて一般連続体仮説がとは独立である(証明も否定の証明も出来ない)ことを示した.

ギリシア時代,公理は絶対の真理であった.それが,平行線公理の相対性の発見から不完全性定理に至り,公理系を立てることはそれ自体が対象の内部構造を研究するための方法となった.そして解析学は今日に続いている.



2014-05-23