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人間にとっての数学

文明の方法

数学は現代文明のもっとも基本的な方法であり,同時に人間にとって一つの言葉である.文明とは,技術の発展段階によって規定される人間と世界との関係の総体である.それに対して文化とは,その文明のもとで,言語や歴史と一体のものとして特徴づけられる人間が生きる形である.

人間はサルからわかれ長い長い時間を経て,力をあわせて働く生き物になった.人間はこの世界から糧を得るため力をあわせて働く.個の力をあわせることで,類としての力が生れる.力をあわせるために言葉が生まれた.言葉は豊かになり,世界を分節してつかむ方法になった.同時に,言葉によって,考えるということが可能になった.そして先に生きたものの智慧を次代に伝えることができるようになった.

人間は働き,そしてそのことを省みる.言葉がそれを可能にした.今日の労働は昨日より疲れるとか,この石を持ちあげるのはあの石より楽だなど,体感しうる労働量の比較から量の認識がはじまる.また草木の実がなるまでの日にちも,朝放した山羊と夕方戻ってきた山羊の個数の大小も意識されていっただろう.

こうして量の仕組みに関する科学が育っていった.人間が,量についての認識とその言葉としての数,そして数の構造体の学としての数学を獲得してきた内的な発展過程は明確ではない.ただこのような道筋を経て数学が成立したことはまちがいない.

近代文明は商業をもってはじまり,そのとき代数学や幾何学が発展した.そのなかから発展してきた解析学は人類史の画期であった.世界を数学でつかむことに関して,まったく新しい段階をきり拓くものであった.産業革命はニュートン力学なしにはありえず,ニュートン力学は近代解析学なしには展開できなかった.このときから,数学はその文明を支える基本となった.

さらに現代文明は,ものごとすべてを数化してとらえたうえで,その構造を解析しようとするところに,その本質がある.まさに,数学は現代文明を支える基本的な方法である.現代の人間がこの世界で生きていくためには,誰もがそれぞれ一定の数学を身につけなければならない.

第二の母語

数とその構造体の学としての数学は,この世界を量と数の面から分節してつかむ.世界を分節してつかむという点において数学は言葉と同じ働きをしている.

この意味で数学は第二の母語である.しかもこの母語は第一の母語によって表されるが,しかし他の言葉で表すことが可能である.それは,数学が,記号論理の言葉で書かれた公理系として再構築できることによって示されている.つまり,数学の言葉は翻訳可能であり,数学には普遍性がある.

数学はそれ自体として存在するが,存在するところは抽象された場である.それゆえに数学的な判断は論証による.数学は論証してはじめて存在する.ある数学的事実は何を根拠に成立するか.それを考える.本当か? なぜなのか? と考える.数学的事実を把握し,根拠を論証し,一見正しいことも根拠が明確でなければあくまで疑い,真偽を追求する.

だから数学を勉強することは,同時に,批判的論証の基礎訓練である.証明するということ自体が近代の人間の必須の方法である.論述や弁証が典型的に用いられる数学を学び,結論の根拠を論述したり証明することを通して,筋道を立て結論を予測しそれを論証する力をつける.こうして,この文明のもとでそれに押しつぶされることなく生きるための基本的な方法もまた,数学を通して身につく.

つまり,言葉が,人間を一つの共同体に結びつけその規範の下で生きることを求める側面と,同時に人間の自立を支える基本をなすという側面があるのと同様に,数学もまた,第二の母語として,文明のもとでそれに適応して生きる方法であるとともに,この文明のもとで人間としての原理を失わず生きる方法を教えるという側面をもつ.

数学の土台が問われたデデキントやカントールの時代は,同時に近代文明が問われたときでもあった.その後,数学は数学としての深化と展開をなし,数学と世界の分離と統一の新しい段階に入っている.

文明に適応して生きるという観点からいえば,解析学の土台にある基礎概念を理解し,原理をふまえて微分や積分の計算ができ,これを使いこなすことが高校段階から大学初年級の数学の一つの目標である.

が,それ以上に,基礎的学習を通して,自然現象,社会現象を数学的方法を準備してつかむということそのものを知り,また量的な諸現象の数学的根拠を問うことで数学的世界を広げていくことを学ぶ.そして,これらを通して,大きな枠組を自分で設定し,根拠を問うことの大切さを知り,考える力をつける.これらが,より基本的な数学を学ぶ意義である.

言葉と数学のこのような働きがどのように意識され,また社会的に制度化されているかは,それぞれの文化によって異なる.あるいは,そのことがその文化を特徴づける.したがって,言葉の教育と数学の教育の有り様は,教育のあり方をもっとも端的に照らし出す.



2014-07-23