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根拠を問う

射影幾何学習帳

これは2010年の1月にはじまる私の射影幾何学習帳である.それまでも『数学対話』のなかで,射影幾何に関連する話題を取りあげてきた.その内容は高校範囲かそれに地続きな領域内でのことであった.それら『数学対話』の中の射影幾何に関するものを見直し,私自身の勉強として,改めてその根拠を掘り下げるため,パスカルに立ちかえって読み解き,それをふまえて公理的方法によって射影幾何を再構成したいと考えた.

私は,教育に携わる人や,そのときもっている知識をもとに自分で考えてゆこうとする意欲的な高校生の,その勉強の一助になればと考え,電脳空間におかれた仮想学園,青空学園をやってきた.青空学園の願いは,この場が,制度としてある教育体制から自由に,高校数学とそれにつながる領域を掘りさげる場となり,そして何より,高校数学を学問として学び考える力をつける場となることであった.

学問とは根拠を問うことであり,根拠を問うとは、現象を批判し存在を根本において捉えようとすることであり,さらにそれをも捉え直そうとする永続運動である.青空学園はこの根拠を問う永続運動としての学問の復興を願ってきた.教育とは具体的な課題の勉強と研究を通して,この意味における学問を身につけることでなければならないと考えてきた.

高校生の数学教育にかかわるものは,数学を学ぶだけではなく,再構成するという実践がなければ,ほんとうに,教えていることを理解することもできず,また教える内容を普遍的な立場から自由に語ることもできず,その意味で本当に教えるということは出来ないと考えてきた.これは教える立場のものの自己満足に過ぎないのであるが,しかし必要であり,大学初年級の講義においても不可欠であると考える.大学生にも,その心を開いて数学を伝えることは可能であり,またなされねばならない.

こういう立場からの勉強としてパスカルを読み始めた.自分でようやく理解できたというところも多く,学習帳それ自身はまったく教育的ではない.もっと初学者にも分かりやすく書きたいが,今はそのための基礎作業の段階である.

教育数学

ところで,近年ようやくに「教育数学」が言われはじめた.数理解析研究所講究録1711の『教師に必要な数学能力に関する研究』[47]や1801の『教育数学の構築』[48]を読むと,それぞれの論文で「教育数学」に関していくつかの定義が試みられている.「数学教育とは,出来上がった数学(カリキュラム)をどう教えるかを問題にするものであり,教育数学は教育の諸々の諸相から実際に数学者がかかわることの出来る部分を取り出す営為である」というのが,この共同研究の主宰者・蟹江幸博氏の定義である.このような研究がさらにひろく展開されることを願っている.

『数学対話』「量と数」において,次のように書いた.

数学の教育においては,その根幹に,わかる喜びの継承がなければならない,と考える.高校生に数学を教えることを生業としてきたが,授業というのは,わかる喜びを体験する場なのだということが,経験を通しての確信である.生徒が自ら問題を正しくつかみ,自分で考え,わかってにっこりする.それが「学問としての高校数学」を生きた学問にする.「理解はできるが,納得できない」段階からの飛躍である.その指導に方法としての数学教育の難しさと醍醐味がある.

しかしそれを可能にする前提として,教えるもの自らがわかる喜びを経験していなければならない.「わかった」という経験のないものが数学を教えるなら,生徒たちがわかる喜びを経験するように指導することは難しい.「わかる喜びの継承」は文化である.授業を通してわかる喜びを次代に伝える,ここに数学教育の根幹があり,それを可能にするのが教育数学である.

つまり教育数学とは,わかる喜びの継承を根幹とする数学教育において,それに携わる者自身がそれを研究することをとおして自らわかる喜びを経験する場でなければならない.とすれば,この射影幾何の学習は,筆者の「わかった」という場であり,それ自身が教育数学の素材であると言える.少なくとも自分でそう言えるものを目指したい.

大震災と核惨事

勉強をはじめて1年ほど経過した2011年3月11日,東北地方に大地震が起こり,続いて福島第一原発の核惨事に至った.核惨事が一段落といえるまでには百年をはるかに超える時間がかかるだろう.核惨事は日本の文教政策とも深く係わる大きな問題である.

明治以来,日本という国家の文教政策は,自分で根拠を問い批判的に考える子供を育てるのではなく,目先のことを大過なくやり過ごし,大きな問題は言われるままに従う子供を作ることであった.根拠を問うことは身につけないように,小学生の時期から大学教育まで,生徒や学生を誘導してきた.根拠を問うことなく結果を受け入れることは,大局を見るよりも自己の目前の利害を優先することでもあり,こうして官僚制といわゆる原子力村が形成された.

根拠を問うことは,現実を批判することと一体である.「原発は安全だ」に対して,「どうしてそんなことが言えるのか.その根拠は?」と問い,自ら少し調べれば,たちまち安全の根拠は何もないことがわかる.ところが研究者の世界でも,地域住民の中でも,根拠を問うものはつねに少数派であった.それは日本の近代教育の結果であり,その果てに福島の核惨事が起こった.

東電にだまされたという声を聞く.数学で考える力を鍛え,いかなる言明もその根拠を問い,根拠の有無を自ら考えることができれば,だまされない人が育つ.だまされたのなら,それを教訓として二度とだまされない子供を育てなければならない.国の文教政策に抗ってでも,世間の人々のなかで育てなければならない.それが「しっかりと数学を学び,この時代を生きる智慧と力をつけよう!」という青空学園の願いでもある.

人間は生きるために自ら考え闘ってきた.それが本当の世の礎である.福島核惨事を契機に,自分で考え行動をはじめた人々が出てきた.この同時代に,世界の各地で新たな人々の崛起がはじまった.激動は人間を鍛える.土と言葉を大切に,生活に根ざした協働体が育まれ,その土台のうえに世があらたまることを青空学園は心から願っている.そのとき,パスカルの生き様とその心は大きな助言になると確信している.


2014-01-03