近代フランスの黎明期の思索の深まりは,ラテン語から独立したフランス語の確立と一体であった.モンテーニュは何よりフランス語に明晰さを求めた.心のうちの暗さ,陰影,姿を現しつつある全体像,そこに思いを集め,よく考え,もっとも適切で納得できる言葉をおき,明確な命題に表す.これが「定義」であり,『Essais(エセー)』は近代フランス語による定義集でもある.『エセー』を愛読したパスカルは,このことをモンテーニュに学んだ.
モンテーニュは宗教対立が続くなかで「それぞれの人が人間的条件のすべてを担っている」(エセー三の二)と述べる.二人に相通じるのは,近代が見出した「人間」を,考える基礎におき,慣習となった概念や学問体系に惑わされることなく,人間のすべてをあげて「人間」を直接探求し,そこに定義を置くという基本的な態度であった.それを支えたのが近代フランス語であった.
それはまた明治以来百五十年を経て成熟と閉塞の中にある現代日本における知と学の課題そのものである.フランスの経験に学ぶなら,われわれもまた日本語の問題をおろそかにすることはできない.日本語は歴史的に和歌や俳句などの詩歌で表現が練られてきただけではなく,文章においても長い推敲の歴史がある.日本語もまた的確な表現を追求してきた言葉である.
数学が人間としての営みであるのならば,そのことわりを探求しそれを表すことにおいても,的確で明晰でなければならない.明晰な言葉による定義を追求することに真剣でなければ,パスカルに学ぶことにはならない.人間に立ちかえり考えるかぎり,ことわりにおいて明晰な言葉とその言葉による定義は日本語においてもまったく可能である.
学の対象としての射影幾何,射影幾何を対象とする学問としての射影幾何学,これはまったく別の範疇に属する.もちろん,幾何をどのようにつかむのかという把握の方法自体が学であるから,対象のあり方と学のあり方は相互に深く関係するのであるが,別であることに変わりはない.このように日本語では対象とその学問の分離と統一が可能な表現をもつ.これはその区別を言葉が重視しているということであり,そうであるなら「射影幾何」か「射影幾何学」かいずれであるかについても明晰でなければならない.
数学にかぎらず,学問の基本的な枠組に関する考察を近代日本は必ずしも十全には行っていない.そのために,与えられた問題を解くことにおいて優れてきたが,問題を提起すること,基本的な枠組を提起すること,これらのことについて,日本の近代が貢献したとは言い難い.
なぜその日本語で「射影幾何」というべきところが,「射影幾何学」となることが多いのか.これは射影幾何が内在的に展開してきたものではなく,明治近代になってはじめて紹介された学ぶ対象であったからである.「射影幾何」は何より学ぶ対象であり,学ぶことにおいて学問そのもであったのだ.だから存在としての「射影幾何」とそれを学ぶ「射影幾何学」の境界が曖昧であった.
このような問題は数学それ自体の問題ではないという考えもあるだろう.しかし,パスカルが「数学者である前に人間でなければならない」といったことの顰みにならえば,数学においても言葉を慈しまねばならない.言葉の問題は文化の枠組の問題である.数学の枠組においても,これを疎かにしてはならない.
では「精神」とは何を意味するのか.「精神」は日本の近代に使われるようになった言葉である.『徒然草』一七二に「老いぬる人は、精神おとろへ」とある.しかしこれは物事に執着する気持や目的を達成しようとする心の働き,つまりは気力のことを言い,「幾何学の精神」の「精神」とは違う.
「精神」に近似する言葉は「心」である.心とは,人の内にあって,その人の感情や思ったり考えたりすること,またそのもとで行動し活動することなど,あらゆる生命としての営みを統括している働きであり,またその内容そのものである.機能的にとらえられることもあれば,実体的にとらえられることもある.「心」は外に向かって働きかけていこうとする.さらにそのような働きの根底に「魂」があるとされてきた.
「『○○とかけて××と解く.その心は』『□□』」はよく用いられる.「○○」がどのようなくくりで「××」といえるのか,その根拠が「□□」である.ここから意味が広がり,ものに内在しそのものの本質をなすことも「心」という.「こころ」は古くからの言葉である.『古今集』仮名序に「古へのことをも、歌のこころをも知れる人」とあるように,学問や芸道の本質的なあり方や中心的なすじみちをも意味する.この意味において,パスカルのいう「l'esprit de géométrie」を日本語に翻訳するなら「幾何学の心」とすべきなのである.
ではなぜ本稿では「心」といわず「精神」というのか.「心」の大切なことは,その内在性である.すでに内部に存在している.しかし「幾何学の精神」は,明治近代になって西洋から入ってきたことであり,内在しているとは言い難い.内在せず外部にあってそれを学ぼうとするとき,これを「精神」といってきた.また,人間の「心」を外部から見ようとするときもこれを「精神」としてとらえてきた.だから「精神」は明治以降の近代の言葉である.「歌の心」といい「大和魂」というが「歌の精神」,「大和精神」とは言わない.かつて「日本精神」という言葉があったが,これは軍国主義思想を外部から持ちこむときに使われたのであり,外部にあって学ばねばならないものとしての「日本精神」であった.
パスカルにおいては「l'esprit de géométrie」は内在のものである.しかしわれわれには外在して学ぶべきものである.そのゆえに「精神」という.「幾何学の精神」は「l'esprit de géométrie」の翻訳ではない.翻訳なら「幾何学の心」である.翻訳ではなく,日本語の主体において「l'esprit de géométrie」を「幾何学の精神」ととらえる.
パスカル自身がその著『幾何学の精神』で語る方法としての幾何学の精神よりも,また『パンセ』で「繊細の精神」と対にして提起した幾何学の精神よりも大きく,パスカルが生涯を通して示した学問と真理を探究する原動力をうちにもつ心を『幾何学の精神』ととらえる.これが本稿の立場からの定義である.
「幾何学の精神」は,西洋文明のもとで,人間として生きることを支えてきた「心」でありそのまさに根拠としての「魂」である.本稿では,パスカルの「幾何学の精神」を,近代合理主義よりももっと深く,闇もかかえながらそこに理の光を見出そうとする心のあり方ととらえている.西洋文明が世界大に行きわたり,その一方で西洋世界の相対化が進む今こそ,これを深く学びとらなければならないと考えている.
しかし,同時にその西洋の輝きとその思想的な結実は,大きな犠牲のうえに実現した人類の成果であり,そうであるのならその成果を,まさに大きな犠牲を払って人類が得たこととして,大切に引き継がなければならないとも言える.これがわれわれが数学を学ぶ立場,青空学園の立場である.
21世紀初頭,西洋世界の行き詰まりがはっきりとする一方で,新たな時代の形はまだ明らかでないという段階が継続している.この数百年の西洋の経験から引き継ぐべきことと克服すべきことを吟味してゆくことが求められる.このとき,パスカルの幾何学の精神は人類が引き継ぐべき宝(たから)である.多くの人が耕し,「た(田)から」得られた豊かな実り,共通の財産である.