ホメロスの『オデュッセイア』のなかに,羊を数える話がのっている.洞窟の入り口で羊が1頭出てくるたびに小石を1個袋に入れる.羊飼いはその袋をもち歩く.夕方羊が1頭帰るたびに,その石を1個袋から出す.最後の羊が帰ったとき最後の小石が袋から出されれば,迷子の羊がいないことがわかる.
皿にみかんを1個ずつ乗せてゆく.みかんが余るときもあれば,皿が余るときもある.そのなかでちょうど皿に1個ずつみかんが乗るときがある.このとき,皿とみかんの「何かが同じ」だと,気づく.いったい何が同じなのだろう? と考えた人もいるかも知れない.皿とみかんが一対一に対応する.朝の羊と小石を一対一に対応させておき,その小石と夕方帰ってきた羊とが一対一に対応すれば,朝の羊と夕方の羊の増減はない.そこで何かが同じだ.一対一対応がつかないときは違う.
「一体何が同じで何が違うのか」と考え,同じ「何」としての「数」という概念が育っていった.いつか,小石の代わりに「いち,に,さん,…」と数の言葉を用意しておけばよいことに人はどうして気づいたのだろう.あるいは実がなるまでに月の満ち欠けがどれだけくりかえされるか,こんなところにも数の言葉を発見した動機があるかも知れない.
数を表す言葉が生まれても,3個のみかんは3個のみかん,皿3枚は皿3枚と3が抽象されないまま用いられる膨大な時間があったにちがいない.そのときを経て,数3が抽象されていった.このように,個別のものの形や質などに規定された具体的な量から,個別の性質を捨て一般的な「数」を抽象する力を,人間は長い時間をかけて身につけた.
人間が数をつかみ,それが親から子へと伝えられて,子供は成長のなかで数を身につける.大人からの伝達の作用によって,人類の長い歴史が凝縮されて,子供のなかで反復されるのだ.みかんのように数えられるものの個数がつかまれたなら,つぎは「水がバケツに3杯ある」などのように連続量をはかる単位が生まれ,単位の個数として水の量をつかむことができるようになったと考えられる.
このようにして見いだされた自然数は,数えるという行為と一体である.数えるという行為とは,このものを認識し,その次のものを確認して,自然数によって指示される抽象的な数との間に対応をつけていく,ということにある.最後に対応した数をその集合の要素の個数と認識する,ということである.
このことを定式化して自然数を改めて数学の対象として定義しなおす.
数学ではこのように日頃当然わかったものとして使っている自然数を,改めて「自然数とは何か」と考えなおして,言い直してみることが大切だ.
「たす」という操作を記号「+」で表す.最初の対象「1」と操作「+」とその「くりかえし」,これだけである.1に1たした1+1を2と記し,2に1たした2+1を3と記し,以下順に名前と文字をつけてゆく.このように命名された要素の集合をと記す.その各要素を自然数という.定義の「だけで作られる」というところが大切である.つまり条件を満たすなかで最小の集合である.