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水道方式

根拠を問う

南海  まず昔自分が授業でおこなったことをふりかえりたい.そしてそれをいまもういちど考えなおしたい.かつてどのように考えていたのかを話してみよう.

私は26歳の頃,大学院の博士課程を中途退学して,兵庫県で高校教員をはじめた.その高校は,中学校までの教育のなかで,どちらかと言えば社会的ないろんな要因によって学力をつけることができなかった生徒が多く来ていた.

はじめて教壇に立った頃,教科書のまま話してゆくとどうも様子がおかしい.なぜかと聞いてゆくと,クラスのなかに分数計算ができない生徒が何人かいることがわかった.そこで次の時間に,分数の計算方法の再確認をやろうとすると,今度は,それはできるという生徒が面白くない.早く先に進んでくれという.若かった私は大いに悩んだものだった.

そこであるとき,分数はできるというが,なぜ分数の乗法は分子と分母をそれぞれかけ,除法は割る側の分数の分子と分母を逆にして同様の操作をすればよいのか.それはなぜだか理由が説明できるか? こちらから質問した.答えられるものがいなかった.計算の仕方は知っている生徒も,その理由を説明することはできない.

なぜだろうと考えはじめるところから,数の乗法や除法を,基本に立ちかえって授業した.今度は誰にとっても初めてのことなので,みなよく聞き,そして考えた.そのとき用いた方法が「量に立ちかえる」ことを標榜する「水道方式」だった.ここから私の授業が進んでいった.これは事実である.

どんなクラスにも,やり方のわからない生徒と,すでにやり方は理解している生徒がいる.そのとき,やり方がわかっている生徒にその方法の根拠を問う.多くの場合,わかっているかいないかの違いは,やり方を知っているかいないかの違いに過ぎず,方法の根拠まで理解していることは少ない.そこで一歩原則に立ちかえり,その方法の根拠から一緒に考える.これは,受験生に数学を教えるようになってからも,私の基本的な授業方法となった.

考えてみれば,青空学園でいろいろ作ってきたのも,生徒に根拠を問う準備として,まず自分ではっきりさせておこうということが動機の一つになっている.

私自身についていえば,このときの授業の背景となる量に立ちかえるという方法を,数学として点検し,また深めることはあまり進んでいなかった.授業を思い起こし,そのうえでもう少しこの問題を深めたい.

太郎  『私の考え,私の願い』や『ウエブ上に草の根数学の広場を!』に書かれていますが,そういうことですか.数学を教えるという仕事に興味がわきます.

南海  根拠を問うことを身につけるのは,教育の根幹であると考えているが,教育方法においても,根拠を問うことはたいへん重要であった.これがよくわかった.

そして,計算方法ということに関して,納得のいくように教える一つの糸口は,量に立ちかえり,量から考えることだった.人間の歴史にとって,やはり現実世界の量的な把握は数が生まれた現場である.この現場を追体験する,これが数学の基礎にあることもよくわかった.

太郎  量ですか.数学の授業では,余り量は聞きません.「図形と計量」「量の微分積分」に量という言葉が出てくるくらいです.現実の世界を対象にするのは自然科学などではありませんか.

南海  ここでいう量とは,自然科学の対象としての量よりももっと一般的なことだ.月日を数えたり,獲物の数を数えるのは,やはり現実の世界のことではないか.もちろん,現代では物理学と数学は分化しているので,現実世界の量的な把握は自然科学ではないかという疑問は当然なのだが.

近代物理学と数学でいえば,物理学の対象はすべて量の世界だ.ある意味では,物理というのは<量としてつかまれた世界>の科学だ.もちろん<いかに量としてつかむか>自体が物理学であり,そこに物理学の発展もあった.

数学はまずはこの量の科学を数の言葉で書きしるすところからはじまった.現実の世界に存在するもののある側面を,長さや重さといった量としてつかみ,それを数値化し,こうして量と数は発展してきた.

一方,数学は物理を記述する言葉だけのことであるのか,そうではない.数学は独自の数学的世界をもち,その世界もまた大きく広がった.それもまた数学的な現実世界だ.そこがおもしろいところだ.人間が,いかに抽象的に現実とは切り離して数の世界で考えても,そこに真実かあれば再び現実とつながるときがある.人間の脳自体がこの世界の物理法則の下にあるのだから,当然といえば当然なのだが.

今日では量と数の分化が進み,高校教科書等にもその影響があって,量はほとんど登場しない.しかし,計算の基本などを考えるときには,量に立ちかえることでその仕組みを考えるヒントが得られる.これは実際に経験した事実である.

水道方式

南海  当時私は次のように考えた.

量は現実の第一段階の抽象であり,量は抽象的な数と現実を結びつけるものだ.だから,量から考えることは数学が現実から離れてしまわないために必要なことだ.

そのように考えどのような授業をしたのか.そのときに頼ったのが, 数学教育協議会(数教協) の提唱する水道方式であった.量を外延量と内包量に分け,その違いに着目し,乗法というものを内包量で考えてみようとするのが,水道方式の背景になる理論だ.

いま出てきた外延量や内包量という考え方は,1950年代から60年代にかけて数教協において遠山啓先生が,数学教育における一つの方向を打ち出されたなかで提起されたものだ.最初の提起は1957年の数教協の大会であったという.そこで「分離量と連続量について」,「文章題の量的分析」,「外延量と内包量」等の問題提起が行われた.

数教協は教育方法として「水道方式」を打ち出した.1960年代後半から70年代にかけて,小学校から高校のさまざまの教育現場ですでに多くの実践が行われていた.その蓄積は膨大なものであった.

私もまた水道方式に出会い,早速それを用いたのである.負数と負数の積や分数計算の方法を根拠に立ちかえって理解するということで,量の理論や水道方式による教育方法は確かに大きな力をもっていた.

水道方式は,日本の初等数学教育のなかに根強くあった「数え主義」に反対し,数を量から導くといわれる.もちろん,量が数化されて認識されるうえで,数えるための数は前提である.そのうえで,数を集合の基数と見た上で,具体的な例で考えながら,一対一対応のつく類の代表をタイルで表現する.そのタイルを連続的な量と見なし,それを分割することから分数の定義と演算を考える.こうして得られる分数の計算法が,その根拠から納得して高校生のものとなったのは事実であった.序数としての自然数の準備と,基数としての自然数の理解,そして量を表す分数,この道筋に必然性があることを,実際の経験で知った.

また,水道方式は一般の理解から個別へという演繹過程を軸にすることを提起している.実際にやってみて,人間の認識は定式化された一般の場合を先に理解し,そのあと例外的な場合を考える方が理解が易しいのも事実であった.これらはもっと深められて,高校数学の土台に据えられてよい.

計量単位

南海  この量だが,日本の「 計量法」という法律には次のような量が載っている.

計量単位の統一は社会が組織されるための一つの基本事項である.

(目的)第1条 この法律は、計量の基準を定め、適正な計量の実施を確保し、もって経済の発展及び文化の向上に寄与することを目的とする。

(定義等)第2条 この法律において「計量」とは、次に掲げるもの(以下「物象の状態の量」という。)を計ることをいい、「計量単位」とは、計量の基準となるものをいう。

1.長さ、質量、時間、電流、温度、物質量、光度、角度、立体角、面積、体積、角速度、角加速度、速さ、加速度、周波数、回転速度、波数、密度、力、力のモーメント、圧力、応力、粘度、動粘度、仕事、工率、質量流量、流量、熱量、熱伝導率、比熱容量、エントロピー、電気量、電界の強さ、電圧、起電力、静電容量、磁界の強さ、起磁力、磁束密度、磁束、インダクタンス、電気抵抗、電気のコンダクタンス、インピーダンス、電力、無効電力、皮相電力、電力量、無効電力量、皮相電力量、電磁波の減衰量、電磁波の電力密度、放射強度、光束、輝度、照度、音響パワー、音圧レベル、振動加速度レベル、濃度、中性子放出率、放射能、吸収線量、吸収線量率、カーマ、カーマ率、照射線量、照射線量率、線量当量又は線量当量率

2.繊度、比重その他の政令で定めるもの

太郎  ずいぶんとあるのですね.

南海  ここに載っている量は,ある点から見れば,2つの種類に分けられることに気づくだろうか.

太郎  長さや質量は実数ですが,速さはベクトルです.1次元の量か2次元の量,ですか?

南海  いや,ここでいう速さは速度ベクトルの大きさの方を表している.1次元の量か2次元の量かということで言えば,計量法の量は,基本的には1次元の量であるとしてよい.これらの量の単位はどのようになっているか.

太郎  長さや面積の単位は m , g 等です.それに対して速さは $\mathrm{m}/秒$ ,密度は $\mathrm{g}/\mathrm{m}^3$等です.そうか.上の量には,その単位が分数の形をしていないものと,しているものがあります.単位が分数形の場合についてみると,例えば「速さ」は1時間あたりの移動量であり,密度は 1$\mathrm{m}^3$ あたり何g かを意味しています.

南海  私は当時,このような量の単位の形も参考に,水道方式の内包量をつかんだ.

速さや密度などの量は2つの量の商から定まる.このときはその単位も分数形になる.単位が分数形になっている量を1あたり量,または内包量という.それに対して長さや面積といった単位が分数形でない量を外延量という.

さらに,外延量と1あたり量との,量としての内在的な違いの一つは,加法性があるかないかということである,とした.加法性というのは,2つのものを重なりなく合併したとき,対応する数値も和になる,という性質である,

これは水道方式の考え方である.当時,私もそのように考えた.

太郎  確かに1mの棒と2mの棒を重なりなくつなぐと3mになります.

それに対して,2%の濃度の食塩水と5%の濃度の食塩水を加えると,2%と5%の間の数値になり和にはなりません.

南海  それが内包量だと考えた.しかしよく考えると,内包量といっても,例えば速度でいえば,秒速1m/秒で動くものと秒速2m/秒で動くものを繋ぐと動けないし,秒速2m/秒で動くものの荷台に秒速1m/秒で動くものを載せ,同じ方向に動かせば,載っているものは3m/秒で動く.

このようにものをあわせるということ自体は,現実にどのようなモデルをとるかという問題があり,ものをあわせるとき量が和になるかならないかは,量の内在的な性質とはいえない.しかし当時はこのように考えていた.この辺までいろいろな文献を読んで勉強し,教材を準備して,授業をはじめたのだ.


Aozora
2013-02-17