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今省みる

集合・量・数

南海  私の授業のもとになったのは,水道方式といわれる教育法であった.それを提唱されたのが遠山啓先生である.私は,数学教育への提言を続けられた先生の生き方を尊敬してきた.それを遠山啓式の算数教育と考えてきた.

その先生が1972〜6年頃,ちょうど水道方式の提唱から20年の時点で,いくつかの見解を述べておられる.数学者に向けたものとしては『岩波講座・基礎数学』の月報5(1976年10月)に「集合・量・数」がある.また一般の読者に向けたものでは,雑誌『科学朝日』(1972年5月号)に「6×4,4×6論争にひそむ意味」という一文をよせておられる.いずれもこれも「遠山啓著作集数学教育論シリーズ〈5〉の『量とはなにかI』に収められている.それを読んで,かつての自分の実践を振り返りたい.

まず「集合・量・数」である.これが発表されたのは,ちょうど私が最初に教えた生徒らが高校3年生のときである.この当時はこの一文を知らなかった.あるいは読んでもとくに何も疑問を待たなかったのかも知れない.当時,数学の指導要領から集合をなくすのかどうかが議論になっていたらしい.少し長いが考え方がよくわかるので,ここに紹介する.

     いま,数学教育のなかでは,集合をめぐってさまざまな論議が展開されている。アメリカ流の現代化は,現代数学の基礎は集合論である,という数学研究者にとってはいちおう妥当な判断を直線的に数学教育にもちこんで,集合を小学校から学ばせる方法をとるようになったようである。アメリカは戦争に勝ったから,数学教育でも先進国であると信じこんでいるらしい文部省は,このやり方を直輸入して,1968(昭和43)年の指導要領をつくった。しかし,このやり方は苦情続出のありさまで,つぎの指導要領からは集合を追放するらしいといううわさがもっばらである。

     集合という新しい教材が量や数などのような伝統的な教材とどのような内的関連をもっているかをじゅうぶんに吟味しないで,安易にそれを新奇な概念として導入したことがまちがいのもとであった。そのために有限集合も無限集合も無差別にとりいれるという誤りを犯してしまったのである。いうまでもなく,無限集合を小学校にとりいれることなど無謀もはなはだしい。無限集合をとり入れたら,かならず濃度の問題にぶつかるのであるが,濃度の難点を避けて無限集合を教えようとしても,かならず破綻が生ずる。

     では,有限集合も小学校から追放すべきであろうか。ここでは”集合”という術語のことをいっているのではなく,集合の概念そのものをいっているのである。

     集合の概念そのものを追放して小学校の算数が教えられるか。それはいちおう可能である。その試みはかつて”数え主義”によってなされた。数え主義のよりどころになったのはクロネッカーであった。彼は「数の概念について」(Über den Zahlbergriff)という論文のなかで,集合ではなく,順序にもとづいて整数の理論を構築したのであった。おそらく,この論文は論敵のカントルを意識して書かれたものと想像されるが,この理論を数学教育に応用したのが数え主義であり,それを日本に輸入して30年にわたって国定教科書として使用された『尋常小学算術書』(黒表紙)をつくったのが藤沢利喜太郎 であった。

     藤沢は”量の放逐”をとなえて,

\begin{displaymath}
集合→量→数
\end{displaymath}

という概念の発展系列を否定して,

\begin{displaymath}
順序→数
\end{displaymath}

という系列をもってそれにかえようとしたが,いまからみると,それは失敗であった。

     クロネッカーの理論をさらに精密化したのがペアノの公理であるとも考えられるが,そのもとになっている”後続者”という操作だけては算数を教えることができない。なぜなら,数詞そのものが十進構造をもっているからである。”十ずつ束(集合)にする”という十進構造の核をなす操作は集合づくりを避けて教えることができない。

     十進構造がわからなければ,算用数字のしくみを理解することはできないのであるが,藤沢は,その難点を筆算の早期導入によってきりぬけようとした。これは明らかにゴマカシであった。なぜなら,筆算は算用数字にもとづく計算であるし,算用数字は十進構造と位取りと0の徹底的な理解を不可欠の前提とするからである。その結果,形式的な計算はいちおうできるが,数の意味を理解できない子どもをおおぜいつくりだしてしまった。その欠陥をなおそうとして登場してきたのが1935年の緑表紙であったが,それは算用数字と筆算を目のかたきにする極端な暗算主義の立場をとった。これは,やはり,”数え主義”の流れをくむもので,”修正数え主義”とでも呼んだほうがよいくらいだが、これもやはり,失敗におわろうとしている。なぜなら,いまでは暗算主義の破綻は,もう救済できないものになってしまったからである。

     クロネッカーの流儀が誤りであるとすれば,もうひとつの道である〈集合→量→数〉という系統をとるほかはないだろう。

     「皿のなかにミカンがいくつありますか」という問いのなかには,ミカンの集合が考えられている。そのさい,集合という術語を使うかどうかはどうでもいいことである。

     この問いはミカンの集合の量を問題にしているのだが,そのためには,その集合の要素が等質もしくは等質に近いものであるという前提が必要である。つまり,集合から量が導きだされるためには等質化という条件が加わらねばならない。2個のミカンの集合と3個のリンゴの集合との合併集合をつくることはつねに可能であるが,$2+3=5$という加法によって,その集合に5という量を与えることはふつうやらない。ミカンとリンゴは異質だからである。

     だから,クライン流にいえば,集合の各要素が等質で,いれかえ可能なとき,換言すれば,ある集合が対称置換群を許容するとき,はじめて量の概念が発生するといえるだろう。

     量よりさらに抽象的な概念が数である。3個のミカンと3個のリンゴは,量としてはまるで異なったものであるが,数としてはおなじである。その根拠に1:1の対応づけが可能であるからである。

     だいたい以上のような理由から,私は,

\begin{displaymath}
集合→量→数
\end{displaymath}

という概念の発展系列を数学教育の主軸の一つと考えているのである。もちろん,これに対して,多くの反対意見がありえるし,また,実際にある。とくに多くの数学者から量など不必要だという意見がだされている。たしかに数だけて数学はいちおうやっていける。しかし,数学,とくに解析学は,本質的には量の科学だといってよいと思う。測度論でいう加法的な測度はいわゆる外延量であるし,二つの加法的な測度の微分に関するRadon-Nikodym の定理は,まさに内包量の創出に相当するものだといえよう。

     集合から出発しても量を放逐して,

\begin{displaymath}
集合→数
\end{displaymath}

という系列をとることも不可能ではない。もちろん,分離量(自然数)まではそれでいける。しかし,連続量(実数)になるといきづまる。藤沢の黒表紙は分数×分数の意味を説明することができないで,それを天下りの約束として教えこむほかはなかったのである。

2013年,あの授業をしたのが1974年であるからもう40年近くになる.その後紆余曲折を経て,この20年来,受験生に数学を教えるようになり,高校数学の土台を深めなければならないということで,この15年は青空学園でいろいろ考えてきた.

それをふまえて今この一文を読むといろいろ考えさせられる.この一文への疑問点は,それはそのままかつての自分の考えへの疑問である.

  1. 集合とは全体集合の元のうち一定の条件を満たす元よりなる.リンゴはリンゴのまま,ミカンはミカンのままでものを一つにしても,それは集合とはいえないのではないか.集合という以上,より一般的な条件があってはじめて,リンゴとミカンは一つの集合をなす.この場合は「果物であること」を条件とすれば集合となる.「2個のミカンの集合と3個のリンゴの集合との合併集合」はその意味で集合ではない.単なるものの集まりと定義された集合が混同されてはいないか.
  2. クロネッカーの数え主義にもとづくかつての算数教育が実際どのようなものであったのか,今となってはわからない.遠山先生の言われる,順序数よりも集合に基礎をおく基数を基礎にしなければならないという主張は主張として理解できる.

    しかし集合の一対一対応での同値類から基数を定義することは,数を学んだ後に数を捉え直す考え方であって,子どもは先に数えることを知っていて,はじめて集合の個数が分かるのではないか.同値類につけられた名前としての数を基礎とすることは,教育に適しているだろうか.

  3. 集合を基礎に量を導入する,というのであるが,その一方で,小学校では有限集合の考え方が重要で,無限集合は難しいといわれる.しかし量で重要なのは連続量であり,連続量は無限集合を基礎とする.ということは,水道方式の体系で,分数を教えるときに用いるタイルは,集合の考え方には基づいていないのか.集合を基礎に量を導入する立場は連続量にも適用されているか.
  4. さらに先生は「量で重要なのは連続量」といわれるが,連続量で実際に教育の場に現れるのは分数である.しかし,分数つまり有理数の集合は実数の中で稠密であっても連続ではない.小学算数の指導者に,デデキントやカントールが稠密から連続への飛躍を果たした貴重な歴史が,誤って伝えられないか.
  5. 「数学,とくに解析学は,本質的には量の科学だといってよい」といわれる.しかし事実は,量から自由に数を基礎づけ,その上に数学は発展してきた.量から自由となった数そのものの公理論的な意味での実在,これが数学が目指してきたことではないのか.実数論が公理系で定義され,その上に解析学が築かれたのは事実であり,解析学もまた量から自由である.
  6. 「集合→量→数 という概念の発展系列」といわれるのだが,量の認識には数がなければならない.数は量を量として分節する言葉である.数の言葉があるから,量を捉えることができるのではないか.矢線「量→数」は一方の方向ではなく「数→量」と相互に行きかうのではないか.したがって「概念の発展系列」とは言えず,数によって量を対象化して認識することこそ,発展ではないか.

実はこれは私がやってきた授業の基礎を問うたときに出てくる疑問そのものである.

積の順序

南海  少し私の独白が続くが聞いてほしい.次に「6×4,4×6論争にひそむ意味」である.長いので見出しと要旨を紹介する.

     雑誌『科学朝日』(1972年5月号)「6×4,4×6論争にひそむ意味」

●−−テストは教育の目的か手段か

     1972年1月26目の『朝日新聞』に小学校のテストをめぐる論争がのった。それによると,昨年の秋,大阪府松原市・松原南小学校の2年生のテストに,つぎのような問題があったという。

     「6人のこどもに1人4こずつみかんをあたえたい。みかんはいくつあればよいでしょうか」

     これに対して何人かの子どもは,

\begin{displaymath}
6\times 4=24
\end{displaymath}

と書いたが,その答案は,答えの24こにはマルがつけられ,式の6×4にはバツがつけられ,4×6と訂正されたという。そこで,これに疑問をいだいた親が,文部省にも質問状をだして論争がまきおこったらしい。

     この論争をのせた新開を送ってもらって読んでみたが,じつにおもしろかった。そこには学校教育をめぐるいろいろの意見をかいま見ることができた。これを読んでまず感じたことは,テストはなんのためにやるのか,という疑問であった。そして,この論争に参加しているほとんどすべて人びとが,テストの意味について考えていないらしいということであった。

     ところが,それとは反対にテストが教育の手段に使われるなら,そのテストの結果はおおいに利用できるだろう。6×4と書いた子どもがいたら,バツをつけるまえに,その子になぜそう書いたかをクラス全休の子どもに説明させて,いいかわるいかを討議させるといいだろう。そうすると,その討議の過程で,その子がまちがっていたら,なぜ誤りとされたかを納得するだろう。また,4×6と書いた子どもも,その子の説明をきいて6×4の考え方がわかって,賛成するかもしれない。

     この問題をめぐって寄せられた投書をみると,ほとんどがマルをつけるかバツをつけるかにだけ気をとられて,テストの意味の意味そのものに立ちかえって考えたものはなかった。ただ,ある主婦の投書に,「授業中に別の考え方が出れば,授業がいっそう充実したものになると思います。たまたまテストで別の考え方が発見されたら,先生はていねいに取上げてほしい」というのがあった。この意見は正しい点をついている。

     ところが「言語,文字,数式などは社会的な約束です。4×6であって6×4ではないというのは約束です。約束を守り,守らせることは思考の統制ではありません」というのは元小学校長の投書であった。この人は,すべての子どもを賢くするよりは,どうも管理することに関心のあった人らしい。

●−−かけ算はたし算のくりかえしか

     では,本題にはいって,いったい6×4は正しいか,まちがっているかについて考えてみよう。この問題の答えとして,4×6だけが正解であり,ほかを誤りとする理由はどこにもない。もともと算数の考え方は一通りしかないと思いこむのがおかしいので,多種多様な解き方があってよいのである。ミカンを配るのに,トランプを配るときのやり方で配ると,1回分が6こ,それを4回くばるのだから,それを思い浮かべる子どもは,むしろ,

\begin{displaymath}
6\times 4=24
\end{displaymath}

という方式をたてるほうが合理的だといえる。

     また,4×6は,

\begin{displaymath}
4\times6=4+4+4+4+4+4
\end{displaymath}

という意味だとすることにも私は反対である。

●−−加法・減法と乗法・除法はべつの演算と教えよ

     日本式のかけ算の意味をどのように教えるかというと,かけ算をたし算から切りはなして教えることが前提となる。

     そのことは,数がはじめにあって,そのあとでメートルとかキログラムとかのような量が生まれてきた,というのではなく,逆に量がさきにあって,数がそのあとからでてきたと考えなおすことから出発している。

     ところで,量には,大別すると,二種類ある。まず体積・長さ・重さなどのように,ものをあわせると,たし算になるような量がある。それは,とうぜん,+と−とに関係してくる。これは”大きさ”や”広がり"を表わすもので,外延量とよばれている。

     これに対して,速度・密使・濃度などにのように,なんらかの性質の”強さ"を表わす量がある。これは”質量的”とでもいうべきもので,内包量といわれている。

ここには遠山先生の算数教育に対する考えが端的に述べられている.これは1972年のことである.同じ問題が2012年に中日新聞で,また2013年1月25日朝日新聞で報道されたわけだ.40年間,一体何をしてきたのか.算数教育は何も前進しなかったのか.

2013年の朝日新聞の記事は41年前と言葉がやや変わっている.変わったのは,「被乗数×乗数」から「1つ分×いくつ分」となっている.これは中日新聞も同じなので,指導要領などにあわせているのだろう.そして朝日新聞の記事そのものは「被乗数5×乗数3」は「被乗数3×乗数5」でも良いというトランプ配りの観点だけでなく,「いくつ分×1つ分」の順でも良い,という議論になっている.

このように言葉づかいは41年間で少し変わったが,学校で混乱が続いていることは何も変わっていない.かけざんの教育はそれだけ難しいということなのだ.いま遠山先生の一文を読んで,次のようなことを考える.

  1. 6×4とした生徒に根拠を問え,といわれている.これはまったくそうである.私もまた,分数の積で分母と分母,分子と分子を掛ける根拠を問うた.単にバツをするだけでは教育にはなり得ない.この点,まったく我が意を得たり,である.
  2. その上で,「加法・減法と乗法・除法はべつの演算と教えよ」というのには賛成できない.4×6は,

    \begin{displaymath}
4\times6=4+4+4+4+4+4
\end{displaymath}

    でもあることを教えたい.

    それはこういう経験があるからである.かけ算を習って間もない2年生で100×3=300は知っている子に,こちらが思わず3×100と100×3と同じだといったら,その子は「ほんまか」と言いながら3を100回たして,確かに300になることを確認し「ほんまや」といった.

    算数にしろ数学にしろ,まず自分の手持ちの方法で確認すること,この基本態度が大切だ.だからかけ算でも,それを和から定義してやれば,自分で確認できる.

    「加法・減法と乗法・除法はべつの演算」とすれば,逆になぜ5×3が5+5+5と等しいのか,いつも成り立つのはなぜかを教えなければならない.

    最近は積を和から定義しているようだが,これは教える上での要請の結果だろう.

  3. 「加法・減法と乗法・除法はべつの演算と教えよ」の前提にある「量がさきにあって,数がそのあとからでてきたと考えなおすことから出発している。」は客観的な事実ではなく,後に「数は母語」で考えたいが,量の認識は数なしにはありえないのではないか.

太郎  私は,4×6は4が6個分あると理解します.この6個分はやはり6回たすことです.4×15が出てきたとき,いちいち4を15回たすことは面倒ですが,いちどは自分で確認することは大切だと思います.そのうえで,いわゆる積み算による計算で出来ることを理解して,かけ算のありがたさがわかるように思うのです.

南海  確かにそうだ.3×100=100×3 をたし算で確認するのは「ようやる」であるが,もうすこし小さい値のときは,何回か和での計算と積の計算と,結果が同じになることを確認し,それがなぜかを,それこそ10進法で考えるということも,大切だと思う.

このように知っている演算である和から,新たに積を定義することは,自分で確認できるという点からも重要である.

またこれなら,4を7回たすのと,7を4回たすのが同じ結果になることを確認し,そのうえでなぜなのかを考えさせるという授業も出来るのではないか.

教員になったばかりの私は量を用いて数を教えた.次節では,人間と量,数の歴史をたどりつつ,量と数について,私自身の責任で考えをまとめたい.


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Aozora
2013-02-17