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量の獲得

体感量

南海  量というもの,そして数のはじまりをもういちど考えてみよう.

人間が力をあわせて働きはじめたとき,人と人をつなぐ言葉が獲得される.言葉によって協同して働く生命,これが人間だ.言葉は同時に考えるということのはじまりでもある.

働くことと言葉をもつことを土台として,量の意識が形成される.あの山の麓まで行ったときとあの川辺まで行ったとき,体の疲れ方が違う.それは一体何が違うのだろうか.その違いをもたらす根拠として山の方が「遠い」,川の方が「近い」.さらに進んで歩いたときの疲れの違いをもたらす要因としての「遠さ」が認識されていく.量はまず比較にはじまる.

さらに「高い−低い:高さ」が知られ,どこかで「遠さ」と「高さ」に共通する「長さ」へ飛躍していったに違いない.ここに至るのにいったいどれだけの時間がかかったことだろうか.耕す土地の広さもまた,仕事の量として認識されていったのだろう.「広い−狭い:広さ」である.

「広い」という言葉はすでに万葉集に出てくる.「天地は比呂之(ヒロシ)といへど」(『万葉集』八九二).それに対して量としての「大きい」は比較的新しい.室町時代以降よく使われるようになった.それだけ抽象的なのだ.また,入れものに入る水の量から,容器の「大きい−小さい:大きさ」が知られ,この量がまた,岩の「大きさ」と同じ量であることがどこかで認識されたのだ.

このように人間は身体の感覚を基礎として比較を可能にする根拠として量をつかむ.そしてそこに共通することがらをつかむことで,より一般な量を抽象していった.それにしても「広い−狭い」の本質を「広さ」と言い,あまり「狭さ」とは言わない.「高さ」とは言うが「低さ」とは言わない.「短さ」,「小ささ」とも言わない.これは,はるかな昔から,人間が量の方向性を意識していたことを示している.

ただし,それを「量」として認識するのはまた別のことがらであり,長い年月を要した.結論的に言えば,量そのものは近代においてはじめて認識された.それとともに量にもいろいろな種類のあることが改めて認識された.

かぞえる

太郎  量は身体感覚に基づく比較によって獲得されたのですね.では,数えるということはどのようにはじまり,またそれはどのように量と結びつくのですか.

南海  そう.もう一つ人間にとって大切な働きが「かぞえる」ということだ.

「かぞえる」という言葉は古い.「か」は「十日(とうか)」「二十日(はつか)」に今も生きている「か(日)」と何らかの関係がありそうである.つまり,「かぞえる」のはじまりは「日にち」を数えることと関係しているのではないだろうか.植物の生長を待ってその実を採集する文明では,日にちが過ぎていくことは大変重要なことであった.「出でて行きし日を可俗閇(カゾヘ)つつ」(『万葉集』八九〇).「かぞえる」ことから「かず」が抽象され,自然数が獲得されるまでには長い月日が必要だった.このように日にちの運行の認識が数えることのはじめかも知れない.序数としての自然数である.

「多い」という言葉も古い.「恋しくの於保加流(オホカル)我は見つつ偲(しの)はむ」(『万葉集』四四七五).「おおい」は「命長ければ,辱おほし」(『徒然草』)のように「何々が−多し」の形で用いられてきた.この例では「辱が大きい」のではなく「辱をかくことが多い」という意味である.このように「多い−少ない」は「はかる」ものではなく,回数や個数を「かぞえる」ものである.

序数と基数

南海  数える数から,ひとまとまりしたものの個数としての数へ,それがいわゆる序数から基数へということなのだが,どのような過程を経たのだろう.そこでもまた長い長い時間が経過した.それを子供は成長の過程で反復する.それを見てみよう.二つの道がある.

第一は,3枚の皿に3個のみかんをひとつずつおいていけば,皿が余ったり,みかんが余ったりすることなくちょうど1枚の皿にみかんが1つずつおける.このような経験のなかから3枚の皿と3個のみかんは何かが「同じ」だ,と気づく.何が同じなのかと考えて「個数」が同じだ,と知っていく.「3枚の皿」と「3個のみかん」が同じ「3」であることが分かるとき人間は自然数「3」を知る.

第二は,この「3」が,皿を1枚2枚と数えた3枚や,みかんを1個2個と数えた3個が一致することを知る.数えた数が同じなら,すべての皿にちょうど1個ずつみかんが乗る.こうして数える数と個数との一致に気づく.

量を数で捉えることと,個数の認識とは,相互に深まりながらすすんでいったに違いない.また,個数の発見は,実際はもっと生産に直結した場で起こったのだろう.

毎朝放牧した羊と,夕べに帰ってきた羊が同じだけあるのかどうか,数そのものを知らない段階ではどのように判断するか.羊が小屋を出るたびに石をひとつ並べていく.帰ってきたときは,羊が小屋に入るたびに石をひとつ除く.こうしてちょうど最後の1頭が戻ったとき最後の石が除かれれば,増減がなかったことがわかる.この話は,ホメロス(紀元前8世紀末)の「オデュッセイア」のなかにも載っている.

序数が先か基数が先かという議論がある.定義においていずれを先とするかは数の体系の公理の問題である.歴史的事実とは異なる.歴史では,いずれが先かはいえず,相互に深まり豊かになってきたに違いない.

石を並べることが長く続いた後,並べられた石の個数としての数を発見したのだ.基数としての自然数である.このようにして人間のものになった数が,親から子へと伝えられて,子供は数を身につける.大人からの伝達の作用によって,人類の長い歴史が凝縮されて,子供のなかで反復されるのだ.

太郎  そうか.子供が育つというのは長い歴史の蓄えを自分のものにしていくことでもあるのですね.

南海  幼い段階での教育では,どこかでこの歴史を追経験することがなければならない.そして人間が生きてゆくのは,その蓄えられた経験の上に,なんらかの新しい蓄えを加えることなのだ.あるいはそれまでの経験を大きく打ち破ることであってもよい.

はかる

南海  数えることができるようになると,量の比較が数を媒介にするようになる.「今日は昨日の2つ分働いた」.「あの川に行くには,その池に行くのの3倍は歩かなければならない」.このように単なる大小の比較から,数を仲立ちにした比較へすすんだのだろう.

太郎  数えることから,個数にいたり,ものの集まりに数をおくことを身につける.それがあれば,量を大きい小さいという比較から,2倍3倍と数を用いて比べることにすすむことができる.ここでも長い長い時間が必要だったのでしょう.こうして,量を「はかる」にいたるのですね.

南海  「はかる」も古い言葉である.『東大寺諷誦文平安初期点』に「丈尺を以て計(ハカリ)しかども」とある.古典に出てくる例では,このように計量の意味で使われた文献は少なく,『日本霊異記』上・三五(興福寺本訓釈)の「時に市人評(ハカリ)て曰はく」のように「推し量る」意味で使われることが多かった.日本語学者である大野晋の『日本語の形成』(岩波書店,2000)によれば,「はかる」はタミル語<vakai>に起源をもつ.南インドの民であるタミル人は,紀元前10世紀の頃インド大陸北方に欧州系のアーリア人が進入したとき,それにおされて東南アジアにも分散した.その一部が日本列島にまで至り,彼らによって水田耕作技術がもたらされた.こうして弥生時代の農耕文明がはじまったとき「はかる」もまた日本語にもたらされ定着したことはまちがいない.

太郎  「はかる」は奥の深い言葉です.これが水田耕作技術とともにもたらされたというのは印象深いですね.

南海  数を獲得すると,今日は昨日の2倍働いたとか,明日は昨日の3倍働かなくてはと考えることができる.これが「はかる」ということだ.個別単位の誕生である.他の人とも比べられるようにしたい.となれば共通の単位がいる.これが発展して普遍単位が生まれたのだ.

このように,量の深まりと数の深まりとは相互にすすんできた.量が先であるとも言えないし,数は量と関係ないともいえない.子どもはその成長過程でこのような量と数の相互展開を追体験するものなのだろう.

「量」が先なのか「数」が先なのかという論争がそれぞれの立場からあるわけだが.歴史的にも個々人の認識においても,いずれが先でもない.人間は言葉で存在を分節し,切りとってつかむ.だから言葉が存在より先にあるとは言えない.人間がこの世界のなかで生きてゆくとき,つまり労働において,言葉は労働の深まりとともに相互に豊かになってきた.

量と数についても,比べようとする何かがあることに気づくこと.日にちを数えること.これらがまず長い年月をかけて豊かになり,そして,ものの大きさや遠さの比較が,比としてつかまれ,単位量をもとに数で量を表すようになる.このように,直接比較−間接比較−個別単位−普遍単位,という段階を,本当に長い時間をかけてふんできた.

太郎  確かに.今私たちが当然のように数を用いるのも,本当に長い時間の中でのことです.それを考えると,不思議でもありまた何か厳粛な気持ちになります.

南海  人間は長い長い時をへて,量の認識に至った.概念として量が先行するとはいえ,量の認識に数は不可欠である.量と数は互いの展開を促しながら相互に発展してきた.現代においては,数は公理的に構成され,構成された数によって量を仲立ちにして現実の世界を近似してつかむ.量とは現実と数を媒介する概念である.

数学は量の学問ではない.数の学問である.しかしそのことと,教育において量を重視することは,別の問題である.教育においては,量と数が相互に発展してきた過程そのものを追体験しなければ定着しない.またわからない.出来上がった数とその計算法を天下りに教えても,まったくそれは教育ではない.個体発生は系統発生を繰り返すといわれるが,数の習得もまたそうである.だから量と数の相互の高めあいを自ら経験しなければならない.その場を与えその経験を踏ませる作業,それが教育である.

数の世界の完結と,量と数の相互発展の経験の場としての教育と,この分離と統一,これが重要であり,またいまだに未解決の問題である.


Aozora
2013-02-17