私は、現役生を対象とする塾で高校生に教えています。史織さんの文章を読んで、こういうことを考え始めた高校生がいるのか、と思いました。この疑問の奥には、いろんな問題が込められています。私自身が考えてきた問題でもあります。私はそれを順次提起しながら青空学園のみなさんとともに考えていきたいと思いました。
道具の変化は生物としての種の変化と確定よりもはるかに短い時間で自然と人の関係の仕方を変化させ展開させることを可能にしました。生物は変異と淘汰によって個体の属する種の性質そのものを変え、それで始めて自然との関係を改変するのですが、人間は、生物種としては変わらないままに、道具を用いること、つまり技術によって自然との関係を変えることのできる生物となったのです。雷や火山から火を知り、火を使いこなすようになり、火が自然エネルギーとして獲得されました。道具をつくり用いる能力を発達させる方向へ進化していったアウストラロピクテスの一群が、けっきょく道具と手の動かし方を媒介にして、相互関係にもとづき脳の働きを進化発展させていくことを可能にしたのです。人類の発展は、むしろ個体としては非力であるゆえに起こりました。個々の人間の個体は決してライオンのように力があったわけではありません。それがなぜ大型動物を実際に狩って獲物にすることができたのか。協力して獲物を襲い道具を使うということによってです。またこれ以外に人類が存続しうる途はありませんでした。このように、生きようとする生物としての基本性向そのものに人の進化の原動力がありました。
人間が、どのようにして、「一音一語」の単純な言葉から、音そのものとしては無意味な音素を、集団のなかで互いに意味の共通する規則によって続けることによって、複雑な伝達を可能にする言語体系(統語法)を作りあげたのか、わかっていません。だがここに、類人猿から人間への進化の決定的な画期が提示されています。これが生物としての人が人間になる過程そのものであることもまちがいありません。その土台となった統語法は人間の計画性と密接に関連し発展したのです。相談し配置しはじめて狩りができるのです。そして、長い長い過渡期を経て、自然から糧を得る方法が採取から栽培へ発展し、飼育や農耕が開始されたとき、統語法が決定的に発展したこともまちがいありません。
犬は外に向かって吠えますが、自分の内部に対して吠えることはしません。しかし、言葉は、これはこれ、あれはあれと、世界を節に分けきりとる作用をもつが故に、世界のなかの自己という意識を生みだし、言葉を外に発するだけでなく、同時に内部の自己に対して発することを可能にしました。意識が意識として自覚され、人間関係のなかにおける自分というものを客観的に見て対象化し、集団における自己の果たすべき役割を自覚して目的意識をもって生きることを可能にしました。これが人間の思想です。この土台によって初めて、人間に普遍的な真理という考え方が形成されましたが、これはまったくこの言葉という土台なしには不可能なことでした。
人間は生まれたときから、まわりの、とりわけ母親の言葉を学び、身につけます。言葉は選択して選ぶことができません。子供のまわりで話されている言葉を水や空気のように呼吸して身につけるのです。このように、人間にとって言葉は最も根本的な環境です。空気や水といった自然環境は、人間が生命として生存していくうえでの基本的な環境です。これなくしてはいのちの持続が不可能になるような環境です。これに対し、言葉は、生物としての人を人間とするために不可欠の環境です。言葉なくして人間となることは不可能なのです。
ここで述べたことは、実は西洋近代が発見した「生命・労働・言語」を日本語の内部から再発見しようとすることの一端でしかありません。『フランス現代思想』の「専門家」なら、「それはもう乗り越えられた考えだ」というでしょう。しかし私は、日本語の現実はまだ近代を内部から発見はしておらず、この現実を観念で乗り越えて済ますことはできない、と思います。
このなかで、現代日本語もまた大きく変わりました。カタカナ言葉の氾濫、若者言葉による世代の溝、敬語の乱れ、等々が指摘されます。これに対して、「日本語は乱れている」「いや社会の変化に対応する変化に過ぎない」と見解はさまざまです。そのなかで史織さんのように「私は『思考』がわかりません」という意見が出てきました。
史織さんの文章を読んで、かつて新聞に同じことを詩人の立場でとらえた文章が載ったことを思い出しました。詩人大岡信さんの日本語に対する切実な指摘です。ここで紹介します。大岡さんは毎日毎日、『折々のうた』を選んできました。一九九四年には四千回を超え、一年の間を空けて再び新聞の朝刊に掲載を続けています。その大岡さんが、九六年五月二十日次のうたを選んでいます。
「折々のうた」 大岡 信
春すぎて帰化外来語氾濫す
目にも
声にも論立つるにも
馬場あき子 『暁すばる』(平七)所収。「帰化外来語」とは言い得て妙の表現だが、外来語でもたとえばタバコ・カステラの類は、日本語で適当に言いかえられない単語。作者が「氾濫」を嘆いているのは、この種のすでに日本語に同化し終えた外来語ではない。見るにも聞くにも、さらにはご立派な論文の中にも、新種・珍種の外来語(まだ帰化さえしていない)が、春過ぎて埃に捲かれて舞っている。奇妙な国(朝日新聞九六年五月二十日)。
日本の現実は「奇妙な国」なのだというのです。何かおかしいのです。何かが違っているのです。何かが違っているから、日本は人間の住む国として奇妙であり、その国の言葉の現状が人間の言葉であるとは考えられない、と言っているのです。日本語の現実に対する大岡さんの態度は一貫しています。『折々のうた』が四千回となったとき、一文を朝日新聞に寄せていますが、そこにもそれは表明されています。
今まではほとんど書いたことはないと思うが、「折々のうた」を書くうえで私が自分のための掟としていることがいろいろあって−もっともその大方は今では特に意識もしない習慣のようになっているらしいが−その一つは、この百八十字の欄の中では、古くから定着している語以外の新品の外来語は、決して使うまいということだった。つまりポストとかカステラとかは使っても、ポスト・モダンとかエクリチュールとかリアリティとかの片カナ語は使わないと言うこと。言いかえると、物を示す上で他に言いかえようもない言葉は当然使うが、一つの語の訳に対し、訳語だけでもいくつかありうるような観念語、概念語の片カナ使用はしないということ。単純なことで言っても、片カナ語は字数稼ぎには便利だが、「折々のうた」では字数が限られているから、含蓄の多い漢字の方がずっと優れているのである。
意味がさまざまにとれる片カナ語を無原則に使う習慣と、言葉の置き換え、言い換えを気軽にやって平然としている現代日本人の情けない習慣とは、同じ根から出ているもので、私はそれを出来るだけ避けたいと思っている(朝日新聞(九四年七月二十九日)。
日本語は、いわゆる「てにをは」で造られた構造のなかに、体言や用言がうめこまれて、具体的な言葉の表現が構成されます。埋め込む言葉に対する自由度は大きく、さらに日本語は、中国文字を移入した漢字という表意語と、それからつくられた平がな、片カナという二種類の表音語とを、文字としてもっていて、片カナで異なる言語の単語を音で写し、「てにをは」のなかにはめ込むことができます。軽薄な学術論文などでは直接西欧文字を日本語の文脈のなかに置くことさえ日常的になされています。体言のみならず、「する」をつけることで動詞をつくる造語法ももっているために、意味を咀嚼し消化し日本語で定義し直すこと抜きに、西洋語に意味の根拠をもつ言葉でもそのままとりあえず「てにをは」のあいだにうめ込めるのです。
カタカナ語であることが問題の本質ではなく、「意味がさまざまにとれる」、つまり意味が定まらないままに日本語のなかをそのような言葉が漂うことが問題であり、このように考えるなら、カタカナという形ではないが、西洋語の翻訳のために作られた漢語もまた、同様の問題を抱えるのです。事実、「思考」はそのような言葉です。
そこで私はひとつの仮設を提案したいのです。それは、「言葉の意味は内部から定まらなければならない」ということです。史織さんは、日本語の内部の言葉である「思う」と「考える」から「思考」はどのように定まるのかわからない、と言っています。逆に史織さんの意識のなかには、言葉の意味は内部から定まらなければならない、ということが当然のこととしてあるからこそ、こういう疑問が出たのです。ですからこの仮設は、日常的なわれわれの意識では、当然のこととされています。
だが、このように仮設を立て現代日本語を見てみると、内部ではなく外部としての外国語に根拠をおく言葉の氾濫です。これが現実です。 言葉の内部といいましたが、日本語の内部とは何か、どこまで掘り下げれば内部といえるのかという問題があります。さらにまた内部の言葉自身の意味は本当に深められているのか、「思う」と「考える」は相互にどのように規定しあっているのかという問題、これはまだまだ多くの基本的な言葉について考えねばなりません。
本来哲学とは、考えることそのものですが、逆に考えることによって言葉を磨いているのです。私が学んできたフランス現代哲学はまさにそうして言葉そのものを磨いています。近代日本の哲学は日本語を磨いていません。「考える」ということは「哲学」の本質的な内容です。その言葉が日本語の構造から遊離した「思考」という言葉で表されているかぎり、日本語世界に本当の意味で「哲学」は生まれ得ないのです。
現在、わが国の国語教育においては、この概念規定というものがほとんどおこなわれていない。そして私は、まさにそのことが、漢字をブラック・ボックス化させる最大の原因になっているのではないかと考えている。ためしに、読者のみなさんにおたずねしてみたいのだが、あなたはたとえば「概念」と「観念」と「理念」のちがいを、はっきりと表現することができるだろうか。「知性」と「理性」と「悟性」ではいかがだろう。あるいは「愛」と「愛情」と「情愛」と「恋愛」でもかまわない。おそらく他の方々は。そんな細かいことは言語学者や哲学者の領分だ、とお考えになるかもしれないし、実際、それらを参照してすぐに解答をあたえてくれそうな辞書も、あまり簡単には見つからない。
この指摘はそのとおりです。だが、実際に概念規定をしようとしたとき直ちにぶつかる問題は、概念を規定する基本的な言葉自身がない、ということです。まじめに言葉の意味を規定していくことの積みあげのみが、日本語の未来を作っていくとしたら、そのための基本的な言葉について相互規定をおこなわなければ、その先はないということです。基本的な言葉の定義集が求められている、と思われます。史織さんの問題提起に応えるとしたら、青空学園の事業として、基本的な日本語について、その相互の概念規定をおこなう辞典を作らなければならないのではないか、そのように考えています。