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疑問への返信

   私は、現役生を対象とする塾で高校生に教えています。史織さんの文章を読んで、こういうことを考え始めた高校生がいるのか、と思いました。この疑問の奥には、いろんな問題が込められています。私自身が考えてきた問題でもあります。私はそれを順次提起しながら青空学園のみなさんとともに考えていきたいと思いました。

言葉は人間にとって最も身近な環境である

  人間にとって言葉は、生物としての人を「人間」にしているもっとも本質的な、「何か」です。人間は言葉とともに古い、あるいは言葉は人間とともに古い、といえます。人間が、個と種を保持していくために、協同して労働し自然から糧を得るようになったとき、言葉は生まれました。言葉は協同労働の結果であり、それを可能にする前提です。人は、「道具を共有し、道具をもって自然に働きかける生命」となることによって言葉を獲得し、人間となったのです。どんな道具をもって自然に働きかけるか、この工夫が脳の発達を促し、道具の発展と脳の発達は相互に作用しあって前進しました。道具を制作し、道具を使って自然に働きかけ、その対象を人間が利用しうるように変え、個と種を保持することに活かしました。このように、道具を共用することによって人間どうしが結びつけられ、そのうえでの労働が日常の生活様式となりました。人間のこのような発展を保証するものとして、この作用が継続するように生物種としての人の遺伝子が確定したのです。遺伝子的には人間と類人猿の差は少しですが、その差は現実的にはかぎりなく大きいものとなるのです。

  道具の変化は生物としての種の変化と確定よりもはるかに短い時間で自然と人の関係の仕方を変化させ展開させることを可能にしました。生物は変異と淘汰によって個体の属する種の性質そのものを変え、それで始めて自然との関係を改変するのですが、人間は、生物種としては変わらないままに、道具を用いること、つまり技術によって自然との関係を変えることのできる生物となったのです。雷や火山から火を知り、火を使いこなすようになり、火が自然エネルギーとして獲得されました。道具をつくり用いる能力を発達させる方向へ進化していったアウストラロピクテスの一群が、けっきょく道具と手の動かし方を媒介にして、相互関係にもとづき脳の働きを進化発展させていくことを可能にしたのです。人類の発展は、むしろ個体としては非力であるゆえに起こりました。個々の人間の個体は決してライオンのように力があったわけではありません。それがなぜ大型動物を実際に狩って獲物にすることができたのか。協力して獲物を襲い道具を使うということによってです。またこれ以外に人類が存続しうる途はありませんでした。このように、生きようとする生物としての基本性向そのものに人の進化の原動力がありました。

  人間が、どのようにして、「一音一語」の単純な言葉から、音そのものとしては無意味な音素を、集団のなかで互いに意味の共通する規則によって続けることによって、複雑な伝達を可能にする言語体系(統語法)を作りあげたのか、わかっていません。だがここに、類人猿から人間への進化の決定的な画期が提示されています。これが生物としての人が人間になる過程そのものであることもまちがいありません。その土台となった統語法は人間の計画性と密接に関連し発展したのです。相談し配置しはじめて狩りができるのです。そして、長い長い過渡期を経て、自然から糧を得る方法が採取から栽培へ発展し、飼育や農耕が開始されたとき、統語法が決定的に発展したこともまちがいありません。

  犬は外に向かって吠えますが、自分の内部に対して吠えることはしません。しかし、言葉は、これはこれ、あれはあれと、世界を節に分けきりとる作用をもつが故に、世界のなかの自己という意識を生みだし、言葉を外に発するだけでなく、同時に内部の自己に対して発することを可能にしました。意識が意識として自覚され、人間関係のなかにおける自分というものを客観的に見て対象化し、集団における自己の果たすべき役割を自覚して目的意識をもって生きることを可能にしました。これが人間の思想です。この土台によって初めて、人間に普遍的な真理という考え方が形成されましたが、これはまったくこの言葉という土台なしには不可能なことでした。

  人間は生まれたときから、まわりの、とりわけ母親の言葉を学び、身につけます。言葉は選択して選ぶことができません。子供のまわりで話されている言葉を水や空気のように呼吸して身につけるのです。このように、人間にとって言葉は最も根本的な環境です。空気や水といった自然環境は、人間が生命として生存していくうえでの基本的な環境です。これなくしてはいのちの持続が不可能になるような環境です。これに対し、言葉は、生物としての人を人間とするために不可欠の環境です。言葉なくして人間となることは不可能なのです。

  ここで述べたことは、実は西洋近代が発見した「生命・労働・言語」を日本語の内部から再発見しようとすることの一端でしかありません。『フランス現代思想』の「専門家」なら、「それはもう乗り越えられた考えだ」というでしょう。しかし私は、日本語の現実はまだ近代を内部から発見はしておらず、この現実を観念で乗り越えて済ますことはできない、と思います。

言葉の意味は内部から定まらねばならない

  明治以来、とりわけ一九六〇年代の高度経済成長のなかで、われわれの環境は大きく変わりました。高度経済成長は、水俣の水銀汚染をはじめとする公害に至るのですが、同時に生活様式の変化が戦後日本人の考え方を奥深くで変えました。例えば、炊事(すいじ)が土のうえでするものから板の間のうえでするものに変わったようなことが、決定的でした。私が昔住んでいた長屋にも竈(かまど)がありました。それが、六〇年代から七〇年代一斉にアメリカ式の台所に変わっていきました。炊事と農耕文化の断絶が起こりました。竈からガスや電気に変わるにせよ変わり方はあったはずです。しかし、実際のところ、土と食の繋がりを断ち切るかたちで、この変化が起こりました。環境の破壊によってもたらされるいわゆる公害に反対する運動も、問題が解決されることがないが故に終わることなく続いています。干潟や里山を後世に残そうとする試みもまた各地で行われています。その一方で、微量に環境のなかにあるだけで人間を含む生物の生態系に大きな影響を及ぼす環境ホルモンが、世界的に問題になっています。公害に反対し干潟や里山を守ろうとする運動は、近代の資本主義がもたらした人間性の破壊に対する抵抗であり、闘いそのものです。

  このなかで、現代日本語もまた大きく変わりました。カタカナ言葉の氾濫、若者言葉による世代の溝、敬語の乱れ、等々が指摘されます。これに対して、「日本語は乱れている」「いや社会の変化に対応する変化に過ぎない」と見解はさまざまです。そのなかで史織さんのように「私は『思考』がわかりません」という意見が出てきました。

  史織さんの文章を読んで、かつて新聞に同じことを詩人の立場でとらえた文章が載ったことを思い出しました。詩人大岡信さんの日本語に対する切実な指摘です。ここで紹介します。大岡さんは毎日毎日、『折々のうた』を選んできました。一九九四年には四千回を超え、一年の間を空けて再び新聞の朝刊に掲載を続けています。その大岡さんが、九六年五月二十日次のうたを選んでいます。

「折々のうた」 大岡     信

    春すぎて帰化外来語氾濫す
              目にも
    声にも論立つるにも
                     馬場あき子    『暁すばる』(平七)所収。

  「帰化外来語」とは言い得て妙の表現だが、外来語でもたとえばタバコ・カステラの類は、日本語で適当に言いかえられない単語。作者が「氾濫」を嘆いているのは、この種のすでに日本語に同化し終えた外来語ではない。見るにも聞くにも、さらにはご立派な論文の中にも、新種・珍種の外来語(まだ帰化さえしていない)が、春過ぎて埃に捲かれて舞っている。奇妙な国(朝日新聞九六年五月二十日)。

   日本の現実は「奇妙な国」なのだというのです。何かおかしいのです。何かが違っているのです。何かが違っているから、日本は人間の住む国として奇妙であり、その国の言葉の現状が人間の言葉であるとは考えられない、と言っているのです。日本語の現実に対する大岡さんの態度は一貫しています。『折々のうた』が四千回となったとき、一文を朝日新聞に寄せていますが、そこにもそれは表明されています。

  日本語は、いわゆる「てにをは」で造られた構造のなかに、体言や用言がうめこまれて、具体的な言葉の表現が構成されます。埋め込む言葉に対する自由度は大きく、さらに日本語は、中国文字を移入した漢字という表意語と、それからつくられた平がな、片カナという二種類の表音語とを、文字としてもっていて、片カナで異なる言語の単語を音で写し、「てにをは」のなかにはめ込むことができます。軽薄な学術論文などでは直接西欧文字を日本語の文脈のなかに置くことさえ日常的になされています。体言のみならず、「する」をつけることで動詞をつくる造語法ももっているために、意味を咀嚼し消化し日本語で定義し直すこと抜きに、西洋語に意味の根拠をもつ言葉でもそのままとりあえず「てにをは」のあいだにうめ込めるのです。

   カタカナ語であることが問題の本質ではなく、「意味がさまざまにとれる」、つまり意味が定まらないままに日本語のなかをそのような言葉が漂うことが問題であり、このように考えるなら、カタカナという形ではないが、西洋語の翻訳のために作られた漢語もまた、同様の問題を抱えるのです。事実、「思考」はそのような言葉です。

   そこで私はひとつの仮設を提案したいのです。それは、「言葉の意味は内部から定まらなければならない」ということです。史織さんは、日本語の内部の言葉である「思う」と「考える」から「思考」はどのように定まるのかわからない、と言っています。逆に史織さんの意識のなかには、言葉の意味は内部から定まらなければならない、ということが当然のこととしてあるからこそ、こういう疑問が出たのです。ですからこの仮設は、日常的なわれわれの意識では、当然のこととされています。

   だが、このように仮設を立て現代日本語を見てみると、内部ではなく外部としての外国語に根拠をおく言葉の氾濫です。これが現実です。 言葉の内部といいましたが、日本語の内部とは何か、どこまで掘り下げれば内部といえるのかという問題があります。さらにまた内部の言葉自身の意味は本当に深められているのか、「思う」と「考える」は相互にどのように規定しあっているのかという問題、これはまだまだ多くの基本的な言葉について考えねばなりません。

   本来哲学とは、考えることそのものですが、逆に考えることによって言葉を磨いているのです。私が学んできたフランス現代哲学はまさにそうして言葉そのものを磨いています。近代日本の哲学は日本語を磨いていません。「考える」ということは「哲学」の本質的な内容です。その言葉が日本語の構造から遊離した「思考」という言葉で表されているかぎり、日本語世界に本当の意味で「哲学」は生まれ得ないのです。

人間の言葉としての現代日本語を再建しよう

  最近このような問題意識を持っているフランス文学・現代思想・言語学を専攻する人の本に出会いました。『日本語の復権』(講談社新書、加賀野井秀一著)である。近代日本語についてのまず妥当な評価の後に、これからの日本語をどのように育てていくのか、について次のように述べています。

   現在、わが国の国語教育においては、この概念規定というものがほとんどおこなわれていない。そして私は、まさにそのことが、漢字をブラック・ボックス化させる最大の原因になっているのではないかと考えている。ためしに、読者のみなさんにおたずねしてみたいのだが、あなたはたとえば「概念」と「観念」と「理念」のちがいを、はっきりと表現することができるだろうか。「知性」と「理性」と「悟性」ではいかがだろう。あるいは「愛」と「愛情」と「情愛」と「恋愛」でもかまわない。おそらく他の方々は。そんな細かいことは言語学者や哲学者の領分だ、とお考えになるかもしれないし、実際、それらを参照してすぐに解答をあたえてくれそうな辞書も、あまり簡単には見つからない。

  この指摘はそのとおりです。だが、実際に概念規定をしようとしたとき直ちにぶつかる問題は、概念を規定する基本的な言葉自身がない、ということです。まじめに言葉の意味を規定していくことの積みあげのみが、日本語の未来を作っていくとしたら、そのための基本的な言葉について相互規定をおこなわなければ、その先はないということです。基本的な言葉の定義集が求められている、と思われます。史織さんの問題提起に応えるとしたら、青空学園の事業として、基本的な日本語について、その相互の概念規定をおこなう辞典を作らなければならないのではないか、そのように考えています。


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