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宇治の記憶

 自らの記憶の最も古いものは、祖母が亡くなったときその棺をのぞいたことだ。一九四九年の死であるから、二歳になったばかりのときである。あごを棺の端にのせてのぞいたときの高い棺の印象が記憶に残っている。その次は天橋立である。父は戦時中徴用で、舞鶴の軍需工場で働いていた。それで戦後、父母と私でその舞鶴へ旅行した。そのとき列車の窓から立ってみた見た天橋立の姿が今も残っている。第三は、妹の誕生のときである。昔はみな産婆の世話で自宅で生んだ。それをまつため父と二人で借家の二階に上がった部屋の記憶である。そしてもう一つは、母が私を寝かしながら語ってくれた昔話である。覚えているのは、草原が火の中で兎が道案内をするというものであった。見返り兎の話しを子供心にそのように受けとめたのかも知れない。

  

初夏の宇治川(03.06)

 これらはみな、小さい自分に残る切りとられた光景である。そして、五歳のころ宇治川べりの借家に越した。その借家を下見に来たとき、父が川べりの出廊下の手すりに手をかけて川をながめていたのも覚えている。

 幼いときのことごとから思い出されるのは、ゆっくりと時の流れる地方の街での、自然との交感である。宇治川が形成した扇状地は大きくない。その要の宇治川東岸の山麓に日本最古の木造建築である宇治上神社と、その川側に宇治神社がある。誰がいずれに祭られているのは時代とともに変わったが、いずれにせよ応神天皇とその子である莵道雅郎子、仁徳天皇がそれぞれに祭られている。この辺りが、二歳のころから八歳のころまでの子供時代の遊び場であった。

  

桐原の泉(02.03)

 源氏物語宇治十帖に出てくる家屋敷も、紫式部が想定したのはこの辺り以外に考えられない。子供にとって宇治上神社は原っぱの続きにある社であった。そこに桐原の泉がある。小さな木掛けの囲いがあり、水が湧き続けている。宇治上神社の拝殿の下は砂地である。そこに萱つり草が午後の日のなかで静かに揺れているのを泉のところに座って眺めていた。この地下水が続いているはるか向こうの深い闇を背にして眺めていた。何歳の頃のことなのかわからない。確かにそういうときがあった。

 故郷は懐かしいにおいでもある。土のにおい、青草のにおい、それらがむせ返るように子供の全身を包む。宇治川は独特の青臭さを含んだ香りをもつ。四歳から八歳までは宇治川に沿った道沿いの裏が川に面したところに移り住んでいた。川のにおいは、朝のにおい、夕べのにおい、夜のにおいとすべて違うし、季節によってもまた違う。それが川風とともに流れる生活のにおいであった。宇治川は、長い川ではない。しかし源が琵琶湖であるために流れは深い。川底は苔むし水草も生い茂る。風とともにくる川面のにおいが故郷のにおいである。初夏の頃から秋口まで、川の虫が夜の灯を求めて飛んでくる。虫まで川のにおいがするのである。川に面した縁側に、夜ともなればカゲロウやトビゲラ、ヘビトンボ、そしてミズスマシやゲンゴロウがやってくる。虫の織りなす世界が、川面の闇を背に少ない灯りのなかで繰り広げられていた。そして新緑の頃には新茶の香りが町中をただよう。新茶を干す香りとともに茶の葉を炒る香りもまた街を包む。それが宇治の街であった。

  宇治上神社(02.03)

 故郷の宇治は、四季折々の風情が祭と結びついている。

 正月の三が日は別の世界であった。

 家には小さい神棚があった。何が祭られていたのかわからない。大晦日に父が神棚に灯明をともして、翌日の別の世界の別の時間の始まりが用意される。その灯明のろうそくの光の静かな揺らぎが、ちがう世界を示していた。その頃竈(かまど)はまだ土間にあった。ここにも小さな門松をかけ、十二の餅といっていたが、小餅を十二個つけてひとつにしたものを鏡餅として祭った。おそらくは年占いの名残なのだろう。ここにも灯明を上げる。

 本家は茶問屋で商売人だった。それだけにしきたりは伝えられていた。大晦日のあの別の世界の準備と期待感は忘れられない。商売人の世界にも確かに農耕に由来する風習が生きていた。そして三が日である。ハレの世界である。三日間はそれはそれはすぐに過ぎてしまう。過ぎゆく正月の名残の感覚も忘れられない。正月五日の県神社の初祭りがあり、続いて太神楽の獅子舞が家々を回り、そして再生の感覚は節分へと引き継がれる。

 二月はいちばん冷たい時節であった。失われてゆく正月の感覚とまだこない春の狭間である。三月は美しい時節であった。再生し新たな農耕がここにはじまる。旧暦の正月前後はまさに籠もるときであった。青虫がさなぎなって繭に籠もりそして時節の到来とともに蝶になる。農耕文化の経験に起源をもつこの死と再生の感覚は一連の正月行事のなかに生活の記憶として受け継がれていた。

  

宇治上神社拜殿(02.03)

  

 莵道雅郎子旧居といわれる宇治上神社本殿。現存する日本最古の木造建築

 宇治川の岸部に立つと、北の方に広々と平野がひろがり、はるか彼方に京都の愛宕山が見える。橋のたもとから見える冬枯れの街は空間に光のみが明るく広がる音のない世界であった。今と違い家々はもっと枯れた色をしていた。畳の冷たさ、火鉢の炭火にしもやけの手をかざす温もり。そのような冬にも竈に置かれた榊の葉はあくまで青く、乾いた風が土間を吹きとおっていった。山麓の冬枯れの木立に虫たちの繭がじっと北風を耐える。光は明るく、風は冷たく、白雲が流れ走る。三月になればもう新しいときである。三月はほのかに輝く黄緑の世界である。こうして、また一年が過ぎてゆくのであった。

 宇治は茶畑と竹藪が多い。茶畑をぬけて竹薮の周りの畦をよく歩いた。空は青く薮をとおすこもれ日が照る。日だまりの空間に射干(しゃが)の白い花が孤独な一隅を作っていた。私はこのアヤメ科の多年草に見入るのが好きだった。秋になれば虫の音を聞くのに時間をつかった。西日がさす晩秋の家の裏の宇治川東岸、その西日のあたる石垣には昼間の暖が残っている。沈みつつある夕日がまだいくらか届いている薄暗い石垣の上に、暖かさを求めじっとする蝿が一匹。風とともに来る川のにおいを背に永遠の時を生きていた。

 一九五五年の台風で宇治川が氾濫、川縁の家は床上まで浸水、橋寺という高台の寺に避難したのを覚えている。その日伯父が駆けつけてくれたことも、夜になって勤めから何とか帰った父が、水が引きはじめたといっている声を今も覚えている。父母も伯父も他界した今、それを覚えているのは私だけだ。記憶とは不思議なものだ。水がゆかの上まで押し寄せた後の始末は大変だった。

 洪水に懲りて、私が八歳のとき転居した。移った家は、県神社と御旅所を結ぶ平等院の裏街道筋に面した、戦前からの三軒長屋であった。後には車が多くなったが、移り住んでからの数年は落ち着いた街道であった。三月の日光が窓をとおして畳を照す。街道を通るもの売りの声が静かに小春日和の明るさのなかを二階のまで届いてきていた。

 宇治の祭りは二つある。

  

  県神社(03.01)

  

県祭りの梵天(04.06.05)

 一つは六月五日の県神社の祭り。

 深夜に街道筋の明かりを消して、梵天と呼ぶ御幣が県神社と御旅所へわたる。県神社の氏子は地元ではない。河内や摂津のあちこちの講である。街道筋の家はお宿と称して家の格子をはずし開けはなって講の人に貸す。昭和も四十年代に入ってからは、格子をはずさず、踊る姿が格子越しに見えるという風情になった。それ以前は格子をはずして沿道と「お宿」は直接につながっていた。家では母が鯖鮨をつくる。

 小学校は午前中で終わり。この習慣は学校と宗教の分離で早くになくなったが、今でも半ドンで帰るときの祭りに向かう気持ちの高揚を覚えている。なぜ県神社の氏子が大阪の講なのか。仁徳天皇の時代に大阪が干ばつで苦しんでいたとき莵道雅郎子の魂が雨を降らせたことに始まっているという言い伝えがある。河内平野を背後にもつ仁徳と莵道雅郎子のつながりが現代にもおよんでいた。

 もう一つの祭りは宇治神社の祭りである。

 五月八日から六月九日へ順次進んでいく。御輿の担い手も順に地元から出す。これが宇治の地元の祭りだと教えられていた。宇治の街に夏の到来を告げる県神社の大幣神事と宇治神社の還幸祭は、六月八日に中宇治地域一帯で催される。病魔退散と豊作を祈願する伝統ある大幣神事は午前十時から県神社大幣殿で式典・祭典が開催。この後大幣座の一行が出発し、県通り・宇治橋通りを経て宇治石油前の交差点まで巡行。続いて午前十一時半から馳馬(四往復)が行われる。最後に大幣と神馬が県通りを宇治橋へと走り抜け、宇治橋下流側から大幣を投げ捨てる。

 いずれの祭りも、新茶の取り入れが終わりその薫りが街に流れているときである。これが長い時間くりかえされてきた季節への感覚と一体となった年中行事であった。

  

宇治神社の還幸祭(03.06.08)

  

  

   

  県祭り夜店(04.06.05)

  大幣走り抜け(03.06.08)

  馳馬(03.06.08)

  

   

   

  県通りの露店、梵天、境内(18.06.05)


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