私の子供が1999年に大学に入りました.今の大学はどうなっているのか見てやろうと思って,父兄の入学式入場券をくれたので,入学式にいってみました.
学長は入学試験というものについて次のことを言っていました.
私はそれを聞いて無性に腹が立ちました.国立大学の学長が何を無責任なことを言っているのか.本当にセンター試験が無意味だと言うなら,センター試験を廃止するために学長としてなすべきことをすべきである.それをせずに,試験の弊害を入学式で得々としゃべるのは,偽善であり,無責任である.
それでも合格して入学式に来ているものはいいが,センター試験に失敗して志望校を変えた者に向かって同じことが言えるか,と思いました.何人もそういう受験生を知っているだけに腹が立ちました.私は,「日本の大学に思想はない.しかし,膨大な資料と施設と金と時間は集められている.大学にいってそれを修得し,少しは人の役に立てようと思うなら,入るための支援をしよう」と思っていますが,試験をする側の人のこういう無責任を目の当たりにすると,「日本の大学に思想はない」ということを再確認せざるを得ません.
私もセンター試験は一日も早く止めるべきだと思います.しかし,問題はもっと深い.「受験の学力と大学に入ってからの力とは無関係である」というが,「大学に入ってからの力」と無関係な入試をしているのは大学側そのものではないか.「大学に入ってからの力」というものに確信があるなら,その力をつける準備ができているかどうかを試験するべきなのであって,そういう試験ができていないと自ら言うことは,逆に自ら自身を問題にすべきなのではないのか,ということです.
昔,私が大学生になった頃,ある先生が最初の授業で,「受験勉強と大学の勉強は関係ない.受験勉強は忘れて一から勉強しろ」と言ったのを今でも覚えています.つまり先の学長の話は,昔からの日本の大学の一般的な考え方なのです.高校での勉強と大学での勉強が断絶している.教育全体を考えるとき,本当にそれでいいのか,ということです.
試験と言えば「科挙」です.「科挙」は中国で行なわれた官吏の登用試験です.実質的には,隋・唐代に始まり,清代の末期の1905年に廃止されました.千数百年続いたわけです.唐では,秀才,明経,進士などの六科に分かれて,経典・詩文などを試験していましたが,宋以後は,特に進士の科が重んじられました.科挙は中国の官僚制度の根幹でした.この科挙について,中国の支配者で「官僚としての力と,科挙の勉強とはまったく違う」と言った者がいたでしょうか.それはまちがっても口にしなかった.事実,科挙で試されたことは,封建官僚としての力そのものでした.文明を支える文化の根幹で若者を試験し登用する制度をもった社会は強い.「科挙」という登用制度をもった中国封建社会は強固でした.
現在の日本の社会では,大学入学試験は過半の若者にとって大人になるための通過儀礼です.正確にはその前半,後半は就職試験と言うべきかも知れませんが.その試験が,通過してから後の力とは関係ないものとして,当の大学側から言われるということは,まったく不幸であり,現在の日本社会の制度疲労そのものであり,近代日本社会の脆弱さの現れであり,そのことに対して大学人が負うべき責任は大きいのです.
私が,先の大学人の発言に腹を立てたのは,そういうことです.いろんなところで,大学人の「受験勉強」に対する批判が聞こえますが,そういう批判は無責任であり偽善です.出題している側の責任はどうなるのか,若者を真に試せない「大学」とは何なのか,ということを真剣に考えなければなりません.
なぜ大学学長のあのような無責任な発言が出るのか,それは大学だけの問題ではなく,今日の日本の社会には,若者を本当に試験する基準をもっていない,という日本社会自身の問題であることが浮かびあがります.それはけっして他人事ではありません.
しかし若者は実際はたくましい.大学側がどういおうと,入試を勝ち抜いてやりたいことをやるのだという者も多くいます.通過儀礼として引き受け,勉強しています.今,日本でいちばん真剣に勉強している若者は,受験生かも知れません.しかし,先の学長の発言について,入学式に参加した教えた子らに聞いてみたところ,疑問・怒りを感じた者が何人かいた一方で,何とも思わなかったか聞き過ごしていた者もまた半数でした.小学校からのゆがんだ受験勉強で,批判力さえ失っている青年もまた,少なくありません.
受験生の諸君には,大学が,無責任に「入学試験は無意味だ」と言いながらもそれを改めようとはしないとしても,それに負けることなく,一つの試練としてそれを自分で引き受け,未来を自分の力で切り開け,と言いたいのです.
そして無事入ったら,大学に幻想をもたずに,修得すべきを目標を見つけ,自分をしっかりもって,学生生活を送れ.すべての根拠を疑い,一から自分で考えよ.人間と世界の現実を見よ.教育へと人々を動員してきた「立身出世,産業立国」はもはや人を動かす力を失った.なぜ人間は学ぶのか,生きるということと学ぶということは,自分にとってどのようなことであり,またそれをどのように遂行していくのか.徹底して考えよ.
未来は若者のものです.