文字のデジタル化,パソコンの普及,通信回線による結合といった技術の発達を活用し,大規模な設備を必要としないで,出力センターといったところにある高品質な文字データを,机の上から利用して,編集・版下作成をするシステムを,販売していました.
仕事を通して,現代技術の意味について,いろいろ考えました.
人類の歴史を技術の発展からみると,現代は情報化技術の時代です.この技術は,人間が火を使いこなし言葉を獲得したことと同じくらい大きな意義を,人類史上に持っています.
かつて,サルからわかれ直立したヒトが,手で火を扱うことを覚え,音節に区切って声が出せるようになり,火と有節音発声の獲得が協同して働くという人間の本質的な特質を生み出し,人間の言葉を育て,思想を可能にしたのです.情報技術もまた,人間に新しい知恵,つまり個の尊重と協同して生きることとの両立を可能なものにする,その意味で人類はいま,本当の民主主義を実現する可能性を生みだしています.
地球上の言葉は皆それぞれの歴史をもっています.言葉の歴史のなかで,コンピュータを持つ言語となるということは,非常に大きな意味をもちます.それもまた電子工学技術の発展がなければ不可能でした.日本にコンピュータが普及しはじめようとしたころ,日本語をカタカナ化しないとコンピュータになじまないのではないかという議論がなされました.しかし,技術の発展は,文字をデジタル化してコードをあてはめることで制御し,かな漢字変換を実現することによってキーボードからの漢字入力を実現し,パーソナルコンピュータを日本語化することに成功しました.つまり,「日本語はコンピュータを持つ言葉となった」のです.その後の技術の発展は,世界の文字をもつ言語はほぼコンピュータをもつ言語となりうるようになりました.
青空学園の存在を可能にしたのも,これらの技術の結果です.
しかし,技術の発展がそのまま人間にとってよいことになるわけではありません.日本の教育の分野でいうなら,「愚かなセンター試験」があります.センター試験は,大量の情報を一気に処理し,しかも各大学から引き出せるように蓄積する情報化技術によって成り立っています.センター試験を可能にしているのも,技術発展の結果です.
しかし,センター試験は取りかえしのつかない失敗でした.青年から落ち着いて勉学することを奪い,受験をよりいっそう小手先の技術にしました.もちろん,その背後には近代日本の大学制度の問題そのものがあるのですが,それを一気に拡大したのがセンター試験です.それは現代技術によって実現しました.大手電算企業だけが儲け,教育の荒廃が進みました.
現代はテレビをはじめとして,圧倒的な画像情報が向こうから飛び込んでくる時代です.携帯でテレビも見られる時代です.インターネットなども基本は画像情報です.その結果何が起こるか.文字から像を再構成する力の衰退です.空間図形や確率の問題文を読んで,像を再構成する力が急速に落ちています.情報技術に流されるとこのようになります.
かつてラジオの時代は,言葉を聞いて像を自分で作っていました.その訓練が自然となされます.ラジオ小説,落語,講談,すべてそうです.小学生から高校生まで,情報機器との関わりを自己節制できなければなりません.人間は頭のなかで言葉で考えなければならないのです.音楽も大切ですが,そればかりでなく現代小説の音読したものを通学途上で聞くようなことも,工夫してしなければならないのです.
携帯の野放しな使用は人間を変えていきます.技術に人間が使われ変えられていっています.インターネットや携帯電話という技術は人間を大きくかえるように思われます.この技術をどのように使いこなすのか.
私は,技術発展のもたらす人類社会の可能性に確信を持っています.が,可能性を現実性に転化するのは,結局は人間です.技術を生かすのも殺すのも人間です.今は技術に人間が振りまわされています.子供たちの言葉の力が技術を担いうる人間を育てなければなりません.そういうときだと思います.
人間は成長の過程で一定の数学を身につけます.数をかぞえ,量をはかり,型のちがいを知るようになる.数の世界は広がり,関数やグラフを学ぶ.また,厳密に論述する術も学ぶ.結論の根拠を示したり,証明することをとおして,予測し,筋道を立て,論証する力をつける.これらはいずれも現代文明のもとで生きるのに必要な事々です.
数学は古代エジプトをはじめとする古代文明とともにはじまります.ユークリッドやピタゴラスに代表されるギリシア文明は,古代エジプト,メソポタミア等のアジア・アフリカ文明と北方の古代アーリア人の文明の混交のなかに花開いたものです.それはアラブ世界に保存され,ルネッサンスの西欧が再発見した.いちどは近代西欧文化に収斂し,そして今日世界中に広がったのです.
ここで文明という言葉の定義をしなければなりません.1996年に米ハーバード大学のハンチントン教授が出した本「文明の衝突」では,欧米(西欧)文明が衰退し,中華(中国)文明などが台頭して欧米をしのぐとか,米中戦争が起こりうるといったシナリオが書かれています.この本は,欧米文明,中華文明,イスラム文明,ヒンドゥー文明(インド),ロシア(東方正教会)文明,ラテンアメリカ文明,日本文明など,今日の世界にいくつもの文明があるように書かれています.しかしそれは正しくない.
文明とは技術が規定する人間社会の有り様であり,今日の世界では西洋にはじまる文明が全世界を覆っています.第一次世界大戦まで,世界には複数の文明がありました.コロンブスに始まるスペイン帝国は,マヤ,アステカといった中南米の文明を侵略して滅ぼした.欧州で産業革命が始まるまで,中国は欧州よりずっと豊かで,中国には欧州にない高度な技術やシステムが存在していた.当時の中国は「中華文明」だった.産業革命で欧州が強く豊かになった英国が,アヘン戦争で中国を破って植民地化し,第一次大戦でオスマントルコを滅ぼしたことにより,世界の文明は西洋文明に単一化された.これは避けがたい事実であり,今日むしろこの西洋文明において近代日本や現代中国はそれをより一般化し普遍化した.
文明は単一化した.この文明のもとで人間がどのように生きてゆくのかという問題は文化の問題です.この文化を深めるためにこそ,文明の本質をつかまなければならないのです.今日の文明の土台にあるのは,なんといっても数学です.数学がなければ,初歩的な技術も設計も機械の運転も何もできません.また,情報技術の基礎にあるのは世界を形式化し数字化してつかみ動かそうとする基本的な傾向です.それがいいことであるとか人間性に反するとかいう議論以前に事実です.世界を数学化してつかもうとする基本的な方向性を現代文明は持っています.この基本における仕方こそ,文明の方法としての数学です.数学を基礎として現代文明は成り立っています.
人間はつねに,ある文明のもとで生きているのですが,そこで生きるうえでの具体的な形を与えるのが文化です.文化は歴史的に形成された固有性をもっています.文化は文明を相対的に見る視点をもち,文明のなかにある反自然,反人間性と対峙するものです.学術の研究とは,この文化を耕し,文明のもとにおける人間の生き方を豊かにするとともに,文明をもまた改変していくものです.
文明の方法としての数学が,日本の文化のなかにまっとうな位置をしめることができていない.あるいは日本の文化が文明の方法としての数学をとらえきる視点を確立していない.世上いわれる「文化としての数学」は定義があいまいで底が浅く,とても文明の方法としての数学をとらえる文化にはなっていません.私は,数学が日本社会に根づくとしたら,文化が「文明の方法としての数学」をとらえ直すことからしかはじまらないと考えています.
よく「道具としての数学,ではなく文化としての数学を」ということがいわれます.しかし「文化としての数学」が外部から呼びかけて可能なのかといえば,文化の本質において不可能です.文化は内からの展開以外にはありえません.今,本当に「文化としての数学」が日本で可能なのかと考えると,問題は簡単ではありません.
数学がより普遍的な文化として根づくためには,いちど,現代文明のなかで,数学がどのように普遍的に機能しているのか,あるいは数学を学び身につけることがこの文明のなかで生きる人間にとっていかに大切で,人間形成の根幹の一つをなしているか,そしてそのような数学が現代の数学とどのようにつながっているか,などを掘りさげて考えなければなりません.「文化としての数学」ではなく,文化が「文明の方法としての数学」をとらえる,ということです.
文明と数学の問題と,文明における人間存在の具体的で固有性のあるあり方としての文化,これを明らかにすることです.その前に「文化としての数学」といっても,それは西洋文化のうわべをまねた大変根の浅いものにしかならないのではないかと考えています.私自身,数学と文化,数学と文明の問題は,まだ考え続けている問題です.
「文明の方法としての数学」にまで立ちかえらないかぎり,日本語文化圏に数学が根づくことはありえません.ここを掘りさげ,「道具としての数学」と「文化としての数学」の対立を乗りこえ,日本における数学を再認識し,それにもとづく数学教育を考えることは,すべてこれからの問題です.