「構」とは「かまえ」であり、「造」とは「つくり」である。すなわち、そのものの現れかた(型)と、そのもののつくられかた(方)である。いずれの「かた」も「こと」であり、「もの」の二つの側面としての「こと」が、構造の意味である。
日本語の構造というとき、まず日本語としてとらえた言葉の全体がある。そして言葉の構造とは、その言葉のかまえとつくりとして、考えられる。
日本語は「てにをは」に集約されるいわゆる「辞」と、ものに対応してそれを分節する言葉としての「詞」からできている。「辞」は文の構造を定める言葉であり、「詞」はそれぞれ意味をもち、「辞」と合わせて文の意味を定める。「辞」も「詞」も「ことば」と訓じる。
日本語の仕組みは、「辞」といくつかの基本的な「詞」によって定まる。それらは日本語の構造を規定する言葉である。それで、それらの言葉を構造の言葉という。同時に構造の言葉は、世界をどのような枠組でつかむかを定める。世界を分節して切り取るうえで基本となる言葉である。
ひとつひとつの言葉は、言葉の構造のなかに位置をもち、その諸関係ではじめて意味が定まる。言葉の意味は、その構造上の位置を基本にして、さらにその言葉にこめられた人間の経験によって深められる。こうして言葉は豊かになってゆく。
構造の言葉が言葉の土台である。この土台に長い歴史のなかで積みあげられてきた人間の智慧が蓄えられている。人間は、日常の言葉を抽象し洗練し結晶させて新たな言葉を生み出し思想を組み立てる。そうでなければ、つまり構造語からくみ上げられた思想でなければ、言葉の力はない。
構造と無縁に翻訳のためにつくられたり、外国語をそのまま音で写した単語や言い回しはその位置を構造の中にもつことはできない。つまりはその意味を定めることができない。すべての新たな単語や言い回しは、構造によって規定されている基本的な言葉から定義され、新たな位置を持ち意味が定められなければ、明確な言葉とはなりえない。
近代日本語は言葉を内部から定めなかった。翻訳のために漢字語を作り出し、最終的な意味の定義は外国語に求めて終わりにし、それも面倒になればカタカナや横文字を中にはめ込んで済ますことで、固有の言葉を育てなかった。
漢字には、長い漢字文明の歴史がある。日本語は、縄文の時代も弥生の時代も、ながく文字をもたず、漢字文明とは離れて熟成してきた。だからまた、日本語にとっては音読みした漢字語もまた内在のものではない。そのままでは異物である。
同じ異物なら音訳の洋語のほうが簡明だし見栄えがする、それが今の流れである。学術から思想、政治、そして日常の言葉まで、この風潮が一般的になっている。
日本語の「構造の言葉」はいわゆる「やまとことば」と重なる部分がある。「やまとことば」と言われる言葉を含む。ではなぜ「やまとことば」と言わないのか。理由は二つある。
第一、「やまとことば」という言葉には、「日本の古来の言葉」「本来の日本語」という考え方がある。しかしそのような言葉の存在は仮説でしかない。「本来の日本語」があるわけではない。現在の日本語総体のなかでの相互関係においてより基本的かどうかということのみがある。
「やまとことば」という考え方からは自由に、世界の構造を切りとる言葉であり、日本語の構造を定める言葉という意味で「構造日本語」という考え方をする。従来やまとことばとしてとらえられてきた語群を含む基本語を、構造日本語としてとらえ直し再定義する。
第二、構造日本語は生きたものである。日本語を固有の言葉とするものが現代日本語と向きあい吟味し日本語のなかでの構造的な位置づけを確定していくことによって、その言葉は新たに構造日本語に加わる。「やまとことば」は固定されている。経験によって言葉を再定義し、骨格となる言葉を広げ深めていく。そのような運動過程によって変化していく基本語、これが構造日本語である。
日本語の構造を定め、また構造から定義される基本語、つまり構造語について、構造から定義されるそのことを、基本語相互の関係としてつかみなおす。それを言葉の内在的定義という。
言葉の意味を「本来の日本語」とかあるいは「農業協同体の言葉」とか現代日本語の外に帰結させない。外在的説明は必要に応じて述べるが、定義を文明論に置き換えることはできない。語源もまた本質的ではない。また、縄文語やあるいはタミル語に由来するかどうかも本質的ではない。それらはあくまで再定義の営みにおける参考資料である。この資料は重視するが、本質ではない。
言葉は生きている。言葉の意味を深く構造から再定義してゆくこと自体が言葉のはたらきである。構造語の定義は現在の日本語に対してなされる。現在の日本語をその構造と意味において問うことによって構造と意味を吟味し再定義する。固有の言葉によって固有の言葉を対象化してゆく営みそのものである。
世界は固有の文化がともに輝く深い普遍の場をめざす。その場こそ文明の新しい段階である。西洋に端を発する近代文明は自らを乗り越え、新しい世界文明にならなければならない。多極化を経て、そのうえで極を超えて、新しい人類的な場としての文明に至らざるを得ない。
この一大転換期、これが現代である。しかしこの転換は言うは易く為すは難いことこのうえなく、すべては未だ可能性に過ぎない。にもかかわらずこの転換は必然である。固有の言葉の再訓はこの転換の時代に不可欠である。
これを考える前提として、そもそもこの日本語はどのような歴史の言葉なのか。ここでそれを再確認したい。
一万五千年前にはじまる縄文時代は、モンゴロイド系を基礎に各地に三内丸山遺跡のように文明が成立していた。そして、黒曜石の分布に見られるように交易もまた盛んであり、東アジアの大陸沿岸沿いに、遠くインド大陸におよんでいた。
紀元前一千年頃のアーリア人のインド大陸進出によってドラビダ人が拡散し日本列島にも至った。水田耕作と鉄器がタミル人によってもたらされた。多くの今に連なる言葉もまたもたらされた。こうして弥生の文明が始まった。
この言葉が縄文語と混成する。その過程のなかに、紀元前の数百年、揚子江沿岸部の呉や越から、日本列島へ幾重にも海の民の移住がおこなわれ、小国家を形成した。そして混成語としての日本語が熟成した。
このうえにさらに一〜六世紀にかけて、漢の後の中国大陸の動乱にあわせて遼東半島や朝鮮半島から新たな支配者、天皇家の祖先に連なる人々、あるいは邪馬台国のようにまた別の系統の人々が移住した。彼らは黄河文明とのつながりをもつ大陸文明の人であった。
縄文の言葉と弥生の言葉が出会い熟成して一つの混成語を生みだすのに千年以上のときが必要だった。平安の時代から再び千年の時をへて江戸末から明治期の西洋との出会いである。そこで近代日本語の試行錯誤と苦しみがはじまる。近代日本語の前提として、このような混成と熟成のときがあったことをおさえておかねばならない。
近代の漢字造語によって、このような歴史ある言葉の生きた力が覆い隠されてしまった。その果てに東大話法といわれる官僚言葉がある。そしてついに東電核惨事に至った。