日本列島の歴史を踏まえ、今日ここに住むものの生き方を考えてゆくためには、ながくこの列島弧に住み、その風土とともに育んできたものの見方、考え方を、もういちど取り出し、時代に応じてそれを深めなければならない。そのようなわれわれの人生観やものの見方、考え方を「里のことわり」と言おう。その骨格をなす言葉を、ここで取りあげよう。
まず里を改めて定義する。「さと(里)」は接頭語の「さ」と「ところ」を表す「と」よりなる。「さ」は「さつき(皐月)」、「さおとめ(早乙女)」、「さなえ(早苗)」、「さみだれ(五月雨)」の「さ」であり、みずみずしいいのちの満ちていることを表す。「と」は「やまと(山の霊威があらわれるところ)」、「みなと(水の霊威があらわれるところ)」のように場を表す。
「さと」はいのちの霊威があらわれるところをいう。つまり、人が生まれ育ち、生活し、いのちをつなぐところの意である。後にそこを出た者は、育った里を、心の拠り所として「ふるさと(古里、故郷)」という。「こと―わり」の意味は、「こと」の意味を考えたうえで後で定義する。ここでは、里につたえられそこに住むものの生き方、その形そしてその仕組みを表すものとする。
里のことわりを慈しみ、それを今に生かす。この心が世の在り方を変えてゆく力であり、この心を欠くならば、何ごとをなさんとしてもそれは根なし草である。
宇宙空間としての「ま(間)」と、大地としての「な(地)」、つまり「まな」、これが世界である。この「まな」は「もの」からなる。「もの」があることで「まな」がある。
「ひと」は「もの」の「こと」を「かたる」が、「もの」そのものを変えることはできない。ものは、ひとのちからでかえられない定めであり、きまりの根拠である。
この言葉は、タミル語manに起源をもつ。タミル語は世の定めや決まりという意味である。それが縄文語と混成するなかで熟成した。
「もの」は変えることのできない定めであり、人の世の定めまですべてをつつむ。定め、きまりの意味のタミル語が、熟成し、意味が深まり、定めやきまりの根拠として、人が見ることができるすべてのものを「もの」という。さらに思いをかけるすべてのものを「もの」という。見たり思ったりするその視線にあるものが、「もの」である。
「もの」を「もの」としてとらえるのは、「見る」働き、あるいは「思う」働きである。そして見たもののことを言葉で切り取る、つまり考える。逆にこの認知作用が成立するものすべてが「もの」である。これが第一義である。
諸々のことが生起する土台にある「もの」は、人の力の外にあり人が変えることはできない。ここから既定の事実、避けがたいさだめ、さまざまの規範などを表す。しかしまた「もの」は人に対して無関係に存在するのではなく、逆に人との関係においてつかまれ、人をひきつけるとともに、ひきつけてはなさない力のある存在である。これが第二義である。
「もの」は、物と心を切り離す二元論の「物」とは異なり、「思い」と切り離されない。「もの」はそのものへの「思い」を引き起こし、見る者のいのちに関わる力あるものとしてとらえられる。つまり「もの」は人に働きかける。もの自体が人が恐怖し畏怖する対象となる。この意義を吟味し、ここに蓄えられた先人の智慧に注目しよう。
「もの」は確かにある。見たり思ったりすることができるものが「もの」である。すべてものは人と係わり、人と係わる一切がものである。ものとは思いをよせる方にあるすべてのものをいう。「もの」を「もの」としてとらえるのは、まず「見る」働き、あるいは「思う」働きである。そして見たものを言葉に切り取り名づける。逆にこの認知の営みが成立するすべてのものが「もの」である。思うことによってものとして切り取られ名づけられてものが成立する。これがものである。
ものはそれ自体で存在している。人がものに思いをかけ、もののことを考えるのはなぜ可能か。それはそこに、ものが確かにに存在しているからである。それがものである。そのものは、諸々のことが生起する土台にあり、人の力の外にあり、存在をなくすることはできない。
ものはもの自身の力で動いている。であるがゆえに、人がものを思うのは、実はものにひきつけられてはじめて起こる。ものは人間をつかむ。ひきつけてはなさない力のある存在である。
「もの」の「かた」を「こと」という。
世界としての「まな」は「もの」からなる。「まな」を「つくる」その「かた」が「こと」である。ひとはそれを「こと」としてとらえ、言葉をつける。
ものの集まりが一つの型として括られるとき、その括られたまとまりをひとは「こと」としてつかむ。《無秩序であった》もののなかに意味を見出し、一つの「かた(型)」にとらえるとき、そのかたを分節した言葉を「こと」という。これが「こと」の原義である。
この言葉は、タミル語katanに起源をもつ。定めや義務という意味である。それが熟成した。
「こと」は日本語でもっとも基本になる言葉で、その意味は深く大きい。人にとってこの世は、動き、生き、響きあい、輝き、生まれ死に、興り滅びしている。それを人は「こと」のはたらきとしてつかむ。「こと」は、人が自らの諸活動と自らが生きる場所に生起する内容をつかもうとするとき、のべられる言葉である。
「こと」そのものは言葉にならない。山の光景にわれを忘れ、職人が制作に没頭し全精神を傾けて仕事に打ち込んでいるとき、人は「こと」のうちにある。そしてわれにかえり反省が生まれる。そのとき、体験したことを言葉にする。直接の出会いから「こと」を経て、概念の把握へ転化する。事実としての存在が本質としての存在に転化する。
つまり「こと」は、「こと(の)は(端、葉)」としての「言葉」に現実化する。「は」は言葉を意味するタミル語vayに由来する。「こと」それ自体は、「言葉」ではない。「言葉」は「こと」の現実の形であって「こと」そのものではない。「こと」は「言葉」が成立する土台であり、「言葉」につかまれる以前の本質を指し示す(指し示そうとする)言葉である。
「くち」の古形「くつ」のかたる内容が「こと」である。
「くつ」は「くつわ〔くつ(口)わ(輪)〕の意」に残っている。ことばになることによって、無秩序なものがまとまり「こと」が成立する。では「うちなあぐち(沖縄語)」というように「くち」は言葉の意味である。
「もの」の世界に意味を見いだし、これを一つの「こと」としてつかむ。このとき、「こと」として「つかむ」「私」が確立する。また、「こととしてつかむ」ときに、意味を成立させる「とき」が生まれる。「時」の成立である。「こと」としてつかまれた内容は、人には「時間的に経過する一連の出来事」として意識される。そのように統括してつかむ作用が人間の認知行為である。
「もの」と「こと」は取り違えることなく使われる。意味をいちいち判断して使うのではなく、発話者の意図と言葉が一体になっているから「もの」「こと」は正しく使われる。日本語の構造と言葉の意識が一体になっている。「もの」の世界を一つの「こと」としてつかむのは人の認知作用の根幹である。言葉というもののはたらきそのものを言葉にした言葉が「こと」である。
「こと」は事実の発見の意識を表現し、「もの」は個人の力の及ばないものの存在を表現している。「もの」が世界を「見る」ことによって切りとられるのに対して、「こと」は世界に耳を傾け「きく(聞く、聴く)」ことによって言葉としてつかまれる。
こと(言)をわる(割る)ことにより明らかとなること。ことをわって人が知ったそのもののこと。ことをわって開かれたより深いこと。これがことわりである。
「こと」は、生々流転する世界を一つのまとまりで切り取りつかむ作用によって得られる内容そのものであり、したがって「ことわり」は、つかんだ「ものの道理」、ものに内在する道理を意味する。ものは人の意のままにはならない存在であるがゆえに、ことわりは人の力では支配し動かすことのできない条理、すじ道、も意味する。
ことを割ることは人間が生きてゆくことそのものである。生きてゆくことはいずれにせよ一つ一つの困難と向きあっていくことである。「もの」としてとらえられた人生の厳格さを聴きとり、それを自己の生き方に表す、それが「ことを割る」ことである。人生とはことわりの人生だということもまた、人生の厳格さである。
世界はいきいきと輝き運動を続けている。人間もまたこの世界のなかでいっとき輝きそして生を終えてものにかえる。そのいっときを「いのちある」ときという。いのちあるとき、それを生きるという。人が生きる内実は、「こと」の内に入って「こと」をつかみ、人生を動かしていくことである。この営みを「ことをわる」という。人生とは「ことをわる」営みそのものである。里はことをわるところであり、ことわりの智恵をつたえるところでもある。
「ことわり」は「ことわるまでもないことだが」のような用法を仲立ちにして、拒絶するという意味まで拡がった。家や村やなどの内で「こと」を荒立てることは、日常生活の流れを断ちきることであった。それがつまり「ことをわる」ことであり、日常生活を「断る」ことであった。協働の場の慣習的な任務に異議を唱えることが「ことわり」であり、したがって日常生活を「断つ」ことを意味する漢字が当てられた。
人のいのちのいとなみそれ自身が「ことわり」であり、さらにそのうえでの「語らい」である。人が生きるということは何かしら「こと」を荒立てることなのである。
「ものがなる」のであり、「ことをする」のである。「ものを思う」のであり、「ことを考える」のである。このように、対になった言葉が日本語の骨格をつくっている。ここまできて、私の高校時代の問題を考えることができる
ものにひきつけられ、心がそのものの上によることを「おもう(思う)」という。ものに思いをよせ、そのもののことを考える。思うとき、考え、ことが生まれる。思うと考えるは二つではじめて、まことの心の働きとなる。
「おもう」は「うむ(生む)」から転じたことばであり、「生む」ことが起こる根拠となる行為という意味である。
タミル語omp-u(熟考する、心を集中する)に由来する。
思うことは創造の源である。その思う行為がなぜ生じるか。それは「ものが人を惹きつける」からである。ものが人を惹きつけとらえるとき、人はものを思う。惹きつけられているその人の心のあり方、つまり、惹きつけられた状態の人の意識とその内容を「思い」という。
思うは、具体的には、自己の内に、恋・思慕・恨み・感慨・望み・想像・執念・予想・心配などをじっと避けがたくもっていることになる。思うことは単にある感情などを持つということではない。「思うことが避けられない」、「思わずにはいられない」というところに「思う」という言葉の意味がある。
「もの」と心はこのように互いに交感し響きあっている。これが「思う」がとらえる世界である。「思い」は「思う」の連用形の名詞化として「思う」という心の働き、また「思う」内容を表す。人の力ではどうしようもなくて「思わずにはいられない」ことが本質的な意味である。人の内部に生まれたその「思い」は、これをそのままじっと心中に置けば「思い」のままである。
古形は「かむがふ」であり、「かむ」は、「かみ(神)」を根拠に協同体を「結ぶ」ことであり、「がふ」は「向かう」の意味。つまりは協同体を結ぶ場で「向かう」ことである。「かむ」はタミル語kamuに由来する。
その「かみ(神)」の「か」は「ありか」や「すみか」の「か」と同じく人が働く根拠としての場と、それを成り立たせている(結ぶ)もの、つまり協同体をまとめるはたらきそのもの、これが「かみ」の基層の意味である。
こうして、二つ揃って真とする日本語のなかで、「考える」は「思う」を対の言葉として熟成した。
ものとものとをつきあわせ、もののことをわる(分析・判断する)こと。「考える」ことは次の三つの段階の総体である。
第一に、この世界のある範囲のものの集まりを一つの「こと」としてとらえる。第二に、「こと」としてつかんだ中にあるものとものをつきあわせ、その関係を調べる。第三に、「こと」の仕組み、つまりことの内部の構造を知る。「考える」の連用形の名詞化として「考え」は、考えた結果の内容を表す。
「思う」と「考える」は別の言葉であり、そのうえで、「思う」と「考える」の二つがそろってはじめて「真(ま)」となる。一方を欠いては真ではありえない。これが日本語のことわりである。
「いき」は「おき」の母音交換形。「おき」は「おく(起く)」の根拠である。ものがおきるのがいきのはたらき。ものがおきるのはそれが生きているからである。
「いのち」の根源を「いき」という。これが「生き」と「息」に分かれた。「生きる」は「いき」がはたらく状態に「いる」ことである。いのちをいのちとするこの根元的な働きがいきである。
いのちの「い」は食べ物。「の」の動作形は「ぬ」で大地(「な」)からものを得ること。つまり「いぬ」は生きるうえでの糧を得ることであり、その行為がなされる場であり、またその行為の主も表す。このように[in]は「いね(稲)」、「いのち(命)」、「いのり(祈り)」などに共通の不変部。「ち」は「霊(ち)」とも書かれ、手の行為を起こさせる大元を示している。
ものが糧を得て生成発展することが、生きるということであり、このときそのもののことを「いきもの」という。いきることの根拠としてのはたらき、それがいのちである。
いのちはものの一つの存在形式。「もの」が「いき」により「いきもの」となる。そのことを「いのち」という。「もの」が「いき」を根幹にして「もの―こと―いき」の三位一体構造において存在するとき、この存在を「いのち」という。
「いのちある」というその「いのち」そのものはことばにならない。世界が、動き、生き、響きあい、輝き、生まれ死に、興り滅びしている。それはいのちの発現である。人間がいのちあるのもまたいのちの発現である。人間が生まれ、そして帰っていく大元であり、人間にさちを贈る大元でもある。
いのちは深い。いのちの発現は、つねに、ことをわるはたらきという形でおこなわれる。それが人間の存在の基本構造である。
人のいのちがはたらくとき、そのところで、ことは言葉となる。いのちは、ときであり、世界の輝きであり、世界の意味である。ものはたがいにことわりをやりとりしている。つまり、ともにはたらく場において「ことわりあう」。「語りあい」、「語らい」である。ものが語らう、これが世界である。ものが語らい響きあうとき、そのことそのものとしてことわりはひらかれる。
ものの内部の語らい、もののあいだの語らい、この語らいこそが内部からことを明らかにする。語らうことによってものはより高くまた広いところに立つ。問題自身のなかから解決の道を見いだすことができる。人もまた、語らいによって、独りよがりな思いこみから解放される。語らいこそ世界を動かすちからである。
「ひと」の「ひ」は「ひ(霊)」とおなじ。「と」は「と(処)」、つまり場所を意味する。「ひと」はいのちの根拠である「ひ(霊)」がとどまるところ。これが日本語が人間をつかんだ原初の形である。
この世界を生成するいのちの根拠がこの世界に現れるあり方。それが人である。近代にいたり、労働し言語をもつ生命として人が「人間」として再発見された。そして今日、近代の人間そのものが問われている。
人が生きてはたらくことは、ものとひととのことわりあいそのものであり、世界との語らいである。人がこの世界で一定のあいだ生きること自体、ことわりである。いのちあるものとしての人は世界からものを受けとり生きる。それがはたらくということである。直接のもののやりとり、つまり直接生産のはたらきこそ、いのちの根元的なはたらきであり、その場でこそもっともいのちが響きあい輝く。人と人はことをわりあい力をあわせてはたらく。つまり、人は語らい協同してはたらく、つまり協働することで人になる。