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社寺叢林に坐る

私は茶所の宇治に生まれた。小学校低学年前後に住んでいた宇治川べりの家の近くには、現存する日本最古の木造建築である宇治上神社が小高い山の麓にあった。その側にある桐原の泉といわれる湧水の建屋も古く、そこに座り込んで風に揺れる草木を見つめていた。その後、引っ越したところには縣(あがた)神社があった。六月五日は奇祭といわれる縣祭である。真夜中に街道筋の明かりを消して、梵天のお渡りがある。家を開放し大阪から来た人らを泊める。お宿といっていた。母が鯖鮨を作る。かつてこの日は小学校も午前中で終わりだった。

家には小さい神棚があった。何が祭られていたのかわからない。大晦日に父が神棚に灯明をともし、翌日の別の世界の別の時間の始まりが用意される。その灯明のろうそくの光の静かな揺らぎが、違う世界を示していた。その頃、まだ土間には竈(かまど)があった。ここにも小さな門松をかけ、十二の餅といっていたが、小餅を十二個、二列に並べてひとつにしたものを鏡餅として祭った。おそらくは年占いのなごりなのだろう。

京都では如意ヶ嶽、いわゆる大文字山の麓の北白川に下宿した。ここは白川女の里であり、北白川天神宮があった。考えごとのあるときはいつも、石段を登り境内にある社の前に腰をおろした。大学をやめ京都を出ることを決めたのも、ここでのことであった。そしてまた、大学の横の吉田山には吉田神社があった。室町時代から続く節分の縁日には夜店が並ぶ。多くの摂社や末社もあり、歩きまわった。八角形の奇妙な建物も印象深い。

働いてからは、西宮に住んだ。はじめに住んだところは西宮えびす神社の近くであった。産業道路と鉄道にはさまれたところにあるが、まわりは深い木々に囲まれている。それから引っ越し、広田神社の地元に住んだ。宮参りにも行かせてもらった。さらに北へ引っ越してからは、もう四半世紀以上、甑(こしき)岩といわれる巨岩の磐座(いわくら)をご神体とする越木岩神社が地元の神社であり、左翼活動に打ち込んでいた時代も含めて、初参りもどんど焼きに参るのも毎年欠かさず続けている。

越木岩神社を取りまく雑木林は、原生林である。冬も葉を落とさない常緑の林である。巨岩を囲む雑木林のなかに社を置き、その自然を守り、その力への畏怖をいだき、身近なものの安寧、世の平安を願って手をあわせる。この地で、営々と人は祈り、拓き耕し生活し、命をつないできた。

このように、磐座や川や山などその地にある固有のものをご神体とし、それをかこむ鎮守の森や社叢とともに、その地の協働体の中心にすえて、人々は力をあわせて生きてきた。森のなかの空間に人が来て坐り、あるいは海の見える洞窟に坐り、心を放って自然とそれを超えたものを感じとり、またそのことを聴く。人が人として生きるうえでなくてはならない場であった。

琉球の御嶽(うたき)もまた同じ意味の場であろうが、琉球語と日本語は関連深いがしかしまた別の言葉であるので、ここでは措いておく。

私は近年、日本語の再定義という問題に導かれて、本居宣長や平田篤胤も読んできたが、神道の教義としてそれを読んだのではない。私にとって、そして神社に参る多くの人にとって、神道は、神とその教えを信じるというよりは、神社によって守られてきた風土とそれに根ざした生活を受けとめ、われわれの生の根拠を感じとり、そして祈ることであった。それは一個人のことではなく、このような経験は人々の深い無意識の記憶として蓄えられ、言葉の基層で伝えられてきた。

それをふまえて、日本列島弧に住むものは神と神道をどのようにとらえてきたのかを、日本語において確認する。そしてそのうえで、このような神社や寺を場とする人の行いの意味を考え、自己の経験に照らして、神と神道を再定義する。そして、いま神道が語ることを聴きとりたい。


AozoraGakuen
2017-05-21