日本語の語る神を考えるにあたり、文字の使い方を一つ決めておく。「このこと」といえば「この」が指し示す内容を意味するが、「このコト」といえば「この『こと』という言葉」の意味である。以下においては、カタカナを、明らかに他言語の固有名の翻訳とわかるとき以外に、「その音が示す言葉」を指示するもとする。ただし、二語以上のことばや、漢字語、そして文章は、かぎ括弧をもちいる。
また「言葉」とは「ことのは」であり、ことの現れである。よって「言葉」は具体的な単語や文章を指すだけでなく、「彼の話す言葉は日本語である」のようにいわゆる「言語」の意味でも用いる。
さて、「神」を日本語ではどのようにとらえてきたのか。言いかえれば、この言葉のもとに生きてきた人々は、何を「神」と言いあらわしてきたのか。
言葉としてのカミは、大野晋先生があきらかにされたように、タミル語に由来する。その意味は「大きな力をもつ恐ろしい存在」である。この言葉が多くの関連する言葉をともなって、三千年の昔、水田耕作とともに日本列島に伝わった。
そして、タミル由来のカミなどの言葉が縄文時代からの言葉と混じり合い、混成語として熟成する中で、カミのカはアリカやスミカのカと同じく人の生きる場を意味し、ミはムの名詞化であり、ムはその場をむすぶ、つまりそれを成り立たせることを意味しするようになる。ムスブもまたタミル語に由来し、意味は「完全になる。なしとげられる」である。
このような言葉の混成と熟成が、三千年前から二千五百年前の日本列島でおこなわれていった。こうしてカミは、人の生きる場をむすぶもの、つまりそれを成り立たせているものとなる。これがカミの基層の意味である。
本居宣長はカミを、「尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳(こと)のありて、可畏き物を迦微とはいうなり」(『古事記伝』一の巻)と定義している。「すぐれたること」のある「かしこきもの」をカミというのである。「かしこき」は先に書いたタミル語本来の意味である。
「かしこきもの」のモノとは何か。この宣長の言葉において大切なことは、モノとコトという言葉が日本語の構造のうちにどのような位置をもつのかということである。モノもまたタミル語に起源をもつ。タミル語の意味は「世の定めや決まり」である。
世界のすべてはものである。ものほど深く大きいものはない。この世界はものからできている。森羅万象、すべてはものである。これが世界である。ものは存在し、たがいに響きあっている。本居宣長は「すぐれたること」のあるものとして神を定義した。
この宣長の定義では、「すぐれたることのあるもの」として、天皇もまた神たり得る。実際、宣長は「天皇は神である」からさらに「神は天皇である」に至った。
ではほんとうに人は神たり得るのか。それを考えるために、「生きる場をむすぶ」の意味をいま少し深めよう。そのためにコトを深める。
コトはモノと対になる言葉である。ものはことを内容として生成変転する。人はものの意味を聞きとりこととしてつかむ。人が、ものを、相互に関連する意味あるもののあつまりとしてつかむとき、そのつかんだ内容がことである。
コトもまたタミル語に起源をもち、カタ(型)と同根である。無秩序であったものが意味をもって一つにまとまること、これがコトの原義である。またクチ(口)とも同根である。クチの古形はクツであり、クウ(食う)とツクル(作る)からなる言葉である。クツワ(轡)に残っている。
口に出して言葉にすることによって、無秩序なものがまとまる。言葉にすることによってことが成立する。言いかえれば、言葉にできる根拠がことである。いわれたこと(言)といわれること(事)のさらに根底にあって、それらを成り立たせている、つまり世界を意味あるものにしている働きをいう言葉である。コトはモノと対になって、日本語でもっとも基本になる言葉をなし、その意味は深く大きい。
人にとってこの世界は、動き、生き、響きあい、輝き、生まれ死に、興り滅びしている。それを人はこととしてつかむ。コトは、人が自らの諸活動と自らが生きる場所に生起する内容をつかもうとするとき、のべられる言葉である。
山の光景にわれを忘れ、職人が制作に没頭し、全精神を傾けて仕事に打ち込んでいるとき、人はことのうちにある。そしてわれにかえり反省が生まれる。そのとき体験したことを言葉にする。把握するという行為は、生きた事実から命名された概念への転化であり、直接の出会いから概念としての把握へ転化する。事実としての存在が本質としての存在に転化する。
では、「こととしてつかむ」のはいかなる働きであるのか。人はこの世界のなかでいっとき輝き、そして生を終えてものにかえる。そのいっときを「いのちあるとき」という。いのちあるとき、それを生きるという。「生きる」のイキはオキの母音交換形である。オキはオク(起く)の根拠である。ものがおきるのはそれが生きているからである。オキもまたタミル語に起源をもつ。
いのちの根源をイキと表す。これが「生き」と「息」に分かれた。「生きる」はいきがはたらく状態にいることである。いのちとは、ものともののことと、さらにものがことにしたがってはたらくいきが一つになる場である。いのちをいのちとするこの根元的な働きがいきである。
いのちのイは食べ物のことで、ノの動作形はヌでナ(大地)からものを得ること。つまりイヌは生きるうえでの糧を得ることを意味し、またその行為がなされる場でもあり、またその行為の主も表す。イヌはイネ(稲)、イノチ(命)、イノリ(祈り)などに共通の不変部である。チは「霊(ち)」とも書かれ、その行為を起こさせる根拠を示している。
いきることの根拠としてのはたらき、それがいのちである。いのちはものの一つの存在形式である。ものがいきのはたらきにより「こととしてつかまれる」のである。
このように日本語を読んだうえで、私自身の来し方をふまえて「神」を定義する。
人の生きる場をむすぶものとは、ものがいきを根幹にして「もの、こと、いき」の構造において存在するとき、この存在を成り立たせるはたらきをするもののことである。生きものを生きものたらしめる根源的なはたらきをするもの、これが「神」の定義である。
神はさまざまの場ではたらき,八百万神といわれるが、そのはたらきは同じである。つまり、人のいのちを成り立たせるのものとしての神であり、その故に人そのものは神ではない。
私たちは、この「いのちの不思議」に出会ったとき、それをなりたたせるものとしての神のはたらきを「すぐれたること」として、実感する。神はかしこきもの、恐ろしいものである。雷(カミナリ)はまさに神の鳴りであり、成りであり、怒れる神であった。そしてこの神に、はらへによって穢れをのぞくことを祈り、まつりによって豊穣を祈る。人は心に願うことがかなうように神に祈る。心から祈るとき「すぐれたること」のある神は、その願いをかなえる。人が生きることとは、ものに思いをかけ、そのもののことを考え、願いがかなうように神に祈り、人生を動かしていくことである。
いのちあるものとしての人は、世界からものを受けとり生きる。それがはたらくということであり、その場はいのちが響きあい輝くところである。人と人はことをわりあい力をあわせてはたらく。人は心から語らい協働することで人になる。この世がものよりできていて、この宇宙があり、そして地球があることの不思議。さらにそこにいのちが生まれ、人が現れたことの不思議。これをむすぶもの、それが神である。
神道とはこのような、神との語らいとその人の行いである。これが神道の定義である。行いであるがゆえに「道」なのである。働くものは、いのちのはたらきとして耕し、ものの世界から糧を受けとる。神道とはこの日々の生産活動の不思議への畏怖と、その生産に携わりつつ生きてきた先人の智慧であり、その実践に他ならない。
生産の不思議を聴きとり、語らい、いのちあるものの安寧と五穀の豊穣を、畏怖をもって祈ること、これが神道である。
個々の人間は、言葉を身につけることで、この智慧を受け継ぎ人間としての考える力を獲得し、そして成長する。成長の過程で身につけた言葉は、その人の考える力の土台である。神道とは、言葉に蓄えられてきた智慧を時代の求めに応じてとりだし、明らかにすることそのものである。このように考えるならば、日本神道とは日本語がその言葉の仕組みをとおして伝える神の道である。
われわれがここで見出した日本神道は、古来よりいまに生きる神の道である。そしてそれは、日本列島が一つの国に統一されるよりもはるか昔に、東アジアやまた遠くインドからの人々が行きかうなかで形成され、今日まで営々と受けつがれ、また深く耕されてきた古人の智慧である。そしてそれは日本語の構造を通して今日に伝えられている。
神道という概念そのものは、それほど古いものではない。それだけにここで改めて定義することの意味がある。われわれはこうして、神道を見いだすのである。
七世紀になって統一国家ができたころ、国家統一のためにいわゆる記紀神話という物語が形成される。そして、神のよりしろとしての神社もまたさまざまに再編され、古来よりの御神体にあわせて、物語に由来する新たな神がまつられてゆく。神社を支配体系に組み込もうとする力と、その土地の神をまつる神社との間にさまざまの矛盾もおこり、その関係も世の変化にあわせてさまざまに変化する。しかし、その基底にはやはり今に続く日本神道がある。