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第一章 『夜明け前』の時代

木曽の馬籠

物語は「木曽路はすべて山の中である」との一文ではじまる。青山半蔵は、木曽の馬籠で本陣、問屋、庄屋を代々の家業とする家に生まれ、その家業を継ぐ。半蔵は、本居宣長、平田篤胤を敬い、篤胤の弟子として明治維新に王政復古の夢を託した。

だが明治維新は半蔵が夢見たものではなかった。維新の現実に絶望した半蔵はついに狂い、座敷牢に生涯を終える。

徳川時代は交通手段も身分制度の下にあり、宿場街の宿は階層により異なっていた。本陣は武士のための宿であり、また彼らのために輸送手段を整える役割も果たし、幕藩体制の根幹をなす交通産業そのものであった。本陣、問屋、庄屋を兼ねるということは、徳川幕府の地域支配の根幹を担うことを意味した。

徳川時代に幾年も幾年もくりかえされてきた宿場町の営みが、黒船を契機にして大きく動いていく。嘉永六年(一八五三)六月、黒船など四隻が来航する。江戸では「太平の眠りを覚ます上喜撰、たった四杯で夜も眠れず」と宇治煎茶の銘柄「上喜撰」と「蒸気船」をかけた狂歌が流行する。同年同月、木曽地方は日照り続きで馬籠もまた大変であった。江戸と馬籠の状況を重ねあわせながら、物語ははじまっていく。

馬籠は木曽十一宿のひとつ、美濃路の西側から木曽路に入った最初の宿場である。そこに本陣、問屋、年寄、伝馬役、定歩行役、水役、七里役などからなる百軒ばかりの家々と、六十軒ばかりの民家と寺や神社がそれぞれ家業を継いできた。本陣、問屋、庄屋など支配層の末端にとって徳川の時代はよき時代であった。

そんな時代の終わり頃、馬籠に芭蕉の句碑が建った。半蔵の父らが建てたのである。

    送られつ送りつ果ては木曽の龝(あき)はせを

江戸文化最後の輝きであった。

半蔵は、当時の多くの若者の世間の遊びである魚釣り、碁、将棋などにふけるのではなく、その代わりに読書を選ぶ人だった。馬籠では、師を得られないままに『詩経』、『四書』、『易書』、『春秋』などを独学した。やがて馬籠の隣の中津川宿に友を得、そのつてで医者をする宮川寛斎に師事、平田派の国学を学んだ。

近世、信濃地方で物資の輸送のために使用された馬とその輸送行為のことを中馬というが、当時の中津川はその中馬で栄えた宿場町であり、交通の要衝として物流と情報の拠点であった。尾張藩の東端に位置し、経済力とあいまって藩内でも独自な存在であった。

中津川では、幕末の対外的な危機に促され、安政六年以降、急速に平田門人が増加する。国際問題に直面することで、日本国の町人としての自己意識が、平田思想を受け入れる素地となった。中津川は、全国的に見ても平田国学の重要な拠点であった。

中津川商人は、以前から、京都での平田門人の宿泊場所として中心的役割を果たしていた生糸問屋の池村久兵衛と、商売上深い関係にあった。そこへ同じ平田門下としての関係が加わり、池村に集まる情報は素早く中津川に届けられ、ここを経由して江戸の平田家に伝わる。このような有様を藤村はくりかえし述べている。そんな環境のなかで、半蔵は向学心を平田国学にぶつけた。

支配体制の末端を担うということは、村民の生活に直に触れるということでもある。十代の後半、生活に迫られて木曽の御用林に入り伐採したことで、腰縄で取り調べられる山民の姿の触れることもあった。また、駄賃の上刎ねや荷送り状の書き換えなどで牛方を搾り取る悪徳問屋に対して、結束して闘い、ついに勝利した牛方の団結力にも強い衝撃を受ける。こうして封建支配の残酷さとそれを打ち破る力に触れ、半蔵は改革の志と「世直し」の理想を持ちはじめていく。

半蔵は江戸へ旅する機会を得る。そのとき、平田国学をともに学ぶ友人に手紙を送る。『夜明け前』第三章の一は次のようにはじまっている。

「蜂谷君、近いうちに、自分は江戸から相州三浦方面へかけて出発する。妻の兄、妻龍本陣の寿平次と同行する。この旅は横須賀在の公郷村に遠い先祖の遺族を訪ねるためであるが、江戸をも見たい。自分は長いことこもり暮らした山の中を出て、初めての旅に上ろうとしている。」
こういう意味の手紙を半蔵は中津川にある親しい学友の蜂谷香蔵あてに書いた。「君によろこんでもらいたいことがある。自分はこの旅で、かねての平田入門の志を果たそうとしている。最近に自分は佐藤信淵の著書を手に入れて、あのすぐれた農学者が平田大人と同郷の人であることを知り、また、いかに大人の深い感化を受けた人であるかをも知った。本居、平田諸大人の国学ほど世に誤解されているものはない。古代の人に見るようなあの直ぐな心は、もう一度この世に求められないものか。どうかして自分らはあの出発点に帰りたい。そこからもう一度この世を見直したい。」という意味をも書き添えた。

こうした青年時代を送った半蔵は、三十二歳で父の吉左衛門から跡を継いだ。

王政復古

江戸では、安政五年(一八五八)の安政の大獄、万延元年(一八六〇)の桜田門外の変と激動が続く。京都からは、皇女和宮が徳川家茂に降嫁していった。公武合体の切り札としての政略結婚であった。公武合体とは、幕府と朝廷との融和・結合をはかることで倒幕勢力に対抗しようとする幕末の政治運動の一潮流である。

文久元年(一八六一)、輿入れの長い行列は馬籠を通り、木曽路を江戸へ下って行った。和宮は当初、東海道を下ることになっていた。しかし東海道では、この縁組に反対するものによる和宮奪回が起こる危険が高く、木曽路に模様替えとなった。村民たちは和宮の降嫁道中に沸き立った。旅籠としての馬籠の最後の華やぎであった。

幕府は文久二年(一八六二)、参勤交代を廃止、江戸表に留まってきた各藩の家人が国元へ帰る。馬籠もまたそれらの人々が続いた。

参勤交代は、幕府が中央集権制を確立し維持するために、一定期間諸大名を江戸に参勤させた制度であり、家光の時、寛永十二年の武家諸法度の改定によって制度化され、以来連綿と続いてきた。

参勤交代は軍の移動であり、大名は配下の武士を大量に引き連れて江戸に出仕し、また領地に引きあげねばならなかった。それが大名行列である。参勤交代のために本陣や宿場が整備され、大名行列が消費する膨大な費用によって繁栄した。大量の大名の随員が地方と江戸を往来したために、彼らを媒介して江戸の文化が全国に広まった。その参勤交代もまた廃止されたのである。

この時期、最も明確な目的意識を持って行動したのが国学の徒である真木和泉であった。真木和泉(文化十年(一八一三)三月七日〜元治元年(一八六四)七月二十一日)は筑紫の国の神官の子に生まれ江戸に遊学する。後に筑紫に帰り藩の改革に取り組むがおよそ十年間にわたり蟄居を命じられた。この期間に全国の志士と交流し、またその思想を深めた。その後、紆余曲折を経て、文久三年(一八六三)五月長州へおもむき毛利敬親父子に謁見、攘夷親政、討幕を説き、六月上京し学習院御用掛となった。真木は、早くから倒幕と皇政復古の主張を明確に掲げ、一貫して行動、倒幕勤王の志士たちを指導した。 『夜明け前』はいう。

弘化安政のころから早くも尊王攘夷の運動を起こして一代の風雲児と謳われた彼、あるいは堂上の公卿に建策しあるいは長州人士を説き今度の京都出兵も多くその人の計画に出たと言わるる彼、この尊攘の鼓吹者は自ら引き起こした戦闘の悲壮な空気の中に倒れて行った。彼は最後の二十一日まで踏みとどまろうとしたが、その時は山崎に退いた長州兵も散乱し、久坂、寺島、入江らの有力な同僚も皆戦死したあとで、天王山に走って、そこで自刃した。

実際、文久三年(一八六三)八月一八日、会津藩と薩摩藩が結託して長州藩を追放した政変が起こる。真木和泉も長州に逃れる。この時期の薩摩はまだ公武合体派であり、長州は明確に反幕府であった。そして、翌元治元年(一八六四)年六月、長州藩の出兵上洛にあたり、その委託を受けて真木和泉は諸隊総督となった。七月の禁門の変では久坂玄瑞、来島又兵衛らとともに浪士隊を率い、七月十九日堺町御門を目指して進軍、市街戦となった。このとき京の街には兵の死体が至る所に転がり、街々は炎上、大混乱に陥った。結局、福井藩兵などに阻まれて敗北、天王山に退却、真木和泉の率いた長州軍は、激戦場から二十日には山崎まで落ちのび、ここで従ってきた数十人を解散する。長州兵の撤退を見届け、山崎に留まった真木和泉以下十七人は、いずれも長州の人ではなかった。

天王山山腹にある宝積寺で一泊、二十一日天王山に登り、会津藩士と新撰組の二百名、見廻組の三百名の討伐軍を確認した。天王山の中腹に登り京都の見える場所で火を放ち、尊皇攘夷のこころざし半ばで、同志十六人とともに自刃した。五十二歳であった。

なんと多くの人間が死んだことか。島崎藤村は真木和泉について哀惜をもって描いている。

同じ頃、水戸藩の過激派浪士らは 尊王攘夷の旗を掲げ筑波山に挙兵した。元治元年(一八六四)、世にいう水戸天狗党の乱である。天狗党は、幕府軍と戦闘をまじえながら北へのがれ、大子で態勢を立直して、武田耕雲斎を首領にえらび、尊皇攘夷のため幕府軍とやむなく対戦した事情を朝廷に訴えようと、京都へむけ西上を開始した。元治元年十月末のことである。西上軍の総勢は千人余りであった。真冬の下野から上野をへて信濃に至る。同年十一月二十六日は馬籠に滞在した。本陣には武田耕雲斎らが宿泊し和歌を残している。さらに美濃をへて、深い雪の峠を越して越前に到着した。

この時彼らを待ち受けていたのは、水戸藩出身の徳川慶喜(禁裏守衛総督)が、朝廷の命をうけて西上軍を鎮圧するために出動したという報せだった。窮地に追い込まれた西上軍は金沢藩に降伏、ついで敦賀の鰊蔵に収容された。徳川幕府は西上軍の約三分の一を処刑するという苛酷な処置を行った。敦賀での処刑をまぬがれた約五百人の多くが農民身分であった。このように水戸藩尊攘派の運動には多数の農民が参加していた。

三河や尾張あたりから伝え聞いた「ええじゃないか」の声は、とうとう半蔵のいる街道にも騒然と伝わってきた。

ええじやないか、ええじやないか
馬龍の宿場では、毎日のように謡の囃子に調子を合わせて、おもしろおかしく往来を踊り歩く村の人たちの声が起こった。

慶応三年の夏から三河で神符の降下を瑞祥として「ええじゃないか」の熱狂が始まった。この熱狂は三河から東西に広がり、関東、中国、四国地方に達した。特に東海地方では、大地震、津波、大雨が相次いで起き、安政五年にはコレラが流行した。そうした中で民衆は、農村にあった御蔭参りを基盤として、「ええじゃないか」のはやしをもった唄を高唱しながら集団で乱舞した。世の変革の兆しを感じつつ、重くのしかかる不安から世直しに熱狂した。

京都を舞台に煮えたぎるような日々が続く。藤村は半蔵が「思いがけない声」を京都の同門の士から聞いたことを、伝える。

彼はその声を京都にいる同門の人からも、名古屋にある有志からも、飯田方面の心あるものからも聞きつけた。

「王政の古に復することは、建武中興の昔に帰ることであってはならない。神武の創業にまで帰って行くことであらねばならない」
その声こそ彼が聞こうとして待ち侘びていたものだ。多くの国学者が夢みる古代復帰の夢がこんな風にして実現される日の近づいたばかりでなく、あの本居翁が書き遺したものにも暗示してある武家時代以前にまでこの復古を求める大勢が押し移りつつあるということは、おそらく討幕の急先鋒をもって任ずる長州の志士達ですら意外とするところであろうと彼には思われた。

慶応三年(一八六七)十月将軍慶喜は政権を朝廷に返上(大政奉還)した。大政奉還は主導権を慶喜側が握ろうとする公武合体派の最後の試みであった。このときの薩摩は西郷隆盛らのもと長州と和解、倒幕の同盟を結んでいた。そして、大政奉還を打ち破るべく、十二月、西郷隆盛は京都に武力を集結、朝廷を動かし王政復古の大号令を敢行。こうして倒幕へ向けた闘いが開始された。 「御一新」である。王政復古は鎌倉幕府以来の諸制度を廃止、武家の世を明確に否定した。『夜明け前』はいう。

踏みしめる草鞍の先は雪溶けの道に燃えて、歩き回れば歩き回るほど新しいよろこびがわいた。一切の変革はむしろ今後にあろうけれど、ともかくも今一度、神武の創造ヘー遠い古代の出発点ヘーその建て直しの日がやって来たことを考えたばかりでも、半裁らの目の前には、なんとなく雄大な気象が浮かんだ。
日ごろ忘れがたい先師の言葉として、篤胤の遺著『静の岩屋』の中に見つけて置いたものも、その時半蔵の胸に浮かんで来た。
「一切は神の心であらうでござる。」

ここで『夜明け前』の一部が終わる。

維新の変質

だが、維新の現実は半蔵の夢を裏切っていく。半蔵は平田派国学の門人として王政復古の夢に生きようとするが、村民や宿場の人々を守らなければならず、友人達のように政治活動に身を投じることができなかった。それだけに御一新を待ち望む気持ちは強かった。

そこに赤報隊の悲劇である。

青山半蔵は新政府軍東征の先駆がくると聞いて胸躍らせる。相楽総三(さがらそうぞう)率いる赤報隊である。小説では「惣三」であるがここでは本来の名で書く。過ぐる慶応三年十月、江戸の薩摩藩邸に入った相楽総三は、集めた同志たちと共に江戸市中を攪乱する命を帯びる。これは、西郷吉之助、大久保一蔵、岩倉具視が立案したもので、江戸幕府を挑発し革命戦争に持ち込もうとするものであった。これに誘われた幕府は薩邸を焼き討ち、これが起因となり鳥羽・伏見の戦いが勃発した。一八六八年一月二日大坂から京都へ向かう幕府軍を官軍が鳥羽・伏見に迎え討つ。官軍完勝であった。これによって幕府側は朝敵の烙印を押され、大義名分が倒幕派のものとなった。兵庫に上陸し京に着いた相楽に西郷は手を取って涙を流して感謝したという。

その相良総三らは東山道官軍先鋒赤報隊として江戸へ向け中山道を上る。「年貢半減令」の触れを出しながら進む。が、官軍の財政は厳しく、三井などの特権商人に金を借りることになる。商人は無条件で金を貸すことはなく、年貢米の請負を要求し、勅定にある年貢米半減の撤回を条件にした。岩倉らははじめから相楽らの行動に不満の色をなし半減令撤回を求めていた。布告の撤回は、新政府の信用に関わる問題であるから、年貢米半減を旗印にすでに進撃している赤報隊を呼び戻そうとした。

聞き入れない相楽隊に対し「偽官軍」であるから召し取るべし、との命が信州諸藩に下された。下諏訪に布陣していた相楽隊は隊長以下幹部連が総督府に弁明のため出向くが捕縛され、一八六八年三月三日、斬刑に処せられた。総三はまさに従容として死に就いた。二十九歳だった。

慶応四年―明治元年の一八六八年は戊辰の年であった。新政府軍と、旧幕府および奥羽越列藩同盟軍との間で行われた一連の戦争、いわゆる戊辰戦争は、このように、その最初の段階で、新政府側の大きな方針転換のうえに、すすんでいったのである。

『夜明け前』では後日談として、「一行の行動を偽官軍と非難する回状が巡ったこと、軍用金を献じた地方の有志は皆付近の藩から厳しい詰問を受けることになること、半蔵も木曽福島のお役所に呼び出され、お叱りを受けたこと」が語られる。ここで初めて彼が二十両もの大金を赤報隊に提供したことが明らかになる。

半蔵が信じていた夜明け、馬籠の人々をはじめとする一般の人々を解放するような夜明けは、来なかった。赤報隊の悲劇は、明治維新が農民や多くの人民の望みを掲げて開始されるが、新しい政権がうち立つや彼らを裏切り、政権が大商業家とそして生まれつつある産業資本家のものに転換していく画期であった。半蔵の夢はこうして最初の挫折を味わう。

木曽地方は維新後設置された筑摩県に属した。県は木曽山林に対する村民の入会権を認めなかった。半蔵は戸長らをまとめ県への嘆願書を作り、山林を村民の生活の場としようと奔走する。しかしこの試みは、山林事件として責任を問われ、戸長免職に追いこまれた。

半蔵は東京に行くことを決意する。そこで一から考え、生き直すつもりだった。四十三歳のときである。てあって神祇局の後身である教部省に出仕する。だが、そこでも、かつて国の教部活動に尽くしたはずの平田国学の成果はまったく無視され、同僚たちは国学者を冷笑するような始末であった。維新直後の神祇局では、平田鉄胤をはじめとする平田国学者が文教にも神社行政にも貢献し、新政府のために尽力したはずである。だが、それはすでに一掃されてしまっていた。半蔵は自問する。

        「これでも復古といえるのか!」

半蔵は半年勤めた教部省を辞す。

縁あって半蔵は飛騨山中の水無神社の宮司になる。「古い神社の方へ行って仕えられる日の来たことは、それを考えたばかりでも彼には夢のような気さえした。」

明治七年秋、半蔵は和歌一首を扇子にしたため、明治天皇の行幸の列に投げ入れる。その歌。

蟹の穴ふせぎとめずは高堤
            やがてくゆべき時なからめや   半蔵

それでも一縷の望みをかけようとする苦しいこころを詠んでいる。半蔵はこの扇子を、近づいて来る第一の御馬車の中に投げた。そして急ぎ引きさがって、額を大地につけ、袴のままにそこにひざまずいた。すべてが終わった。半蔵は「贖罪金」を支払い木曽に戻った。

狂あるのみ

木曽への途上に馬籠に帰った半蔵は、隠居を受け入れる決心をする。そして飛騨に入っていく。長く神仏習合の行われてきた飛騨の奥地、廃仏毀釈から間もないころの飛騨である。半蔵は、この地で古道を人々に伝えることが天命だと考えた。藤村は、宮司としての半蔵を、半蔵の生涯の親友で半蔵が馬籠に帰るのを待たずに死んだ伊之助の病床の言葉として語る。

なんでも飛騨の方から出て来た人の話には、今度の水無神社の宮司さまのなさるものは、それは弘大な御説教で、この国の歴史のことや神さまのことを村の者に説いて聞かせるうちに、いつでもしまいには自分で泣いておしまいなさる。社殿の方で祝詞なぞをあげる時にも、泣いてお出なさることがある。村の若い衆なぞはまた、そんな宮司さまの顔を見ると、子供のように噴き出したくなるそうだ。でも、あの半蔵さんのことを敬神の念につよい人だとは皆思うらしいね。
そういう熱心で四年も神主を勤めたと考えて御覧な、とてもからだが続くもんじゃない。もうお帰りなさるがいい、お帰りなさるがいい―そりゃ平田門人というものはこれまですでに為すべきことを為したのさ、この維新が来るまでにあの人達が心配したり奔走したりしたことだけでも沢山だ、誰が何と言ってもあの骨折が埋められる筈もないからナ

しかし、思いは大きくとも、なしえたことは僅かであった。四年の後、再び馬籠に戻った半蔵は、村の子弟の教育にあたろうとする。自分の二人の息子を東京に遊学させる。その下の息子こそ、島崎藤村その人である。藤村は書く。

        「復古の道は絶えて、平田一門すでに破滅した。」

それを考えると、深い悲しみが彼の胸にわき上がる。古代の人に見るようなあの素直な心はもう一度この世に求められないものか、どうかして自分らはあの出発点に帰りたい、もう一度この世を見直したいとは、篤胤没後の門人一同が願いであって、そこから国学者らの一切の運動ともなったのであるが、過ぐる年月の間の種々な苦い経験は彼一個の失敗にとどまらないように見えて来た。いかなる維新も幻想を伴うものであるのか、物を極端に持って行くことは維新の付き物であるのか、そのためにかえって維新は成就しがたいのであるか、いずれとも彼には言って見ることはできなかったが、これまで国家のために功労も少なくなかった主要な人物の多くでさえ西南戦争を一期とする長い大争いの舞台の上で、あるいは傷つき、あるいは病み、あるいは自刃し、あるいは無慙な非命の最期を遂げた。思わず出るため息と共に、彼は身に徹えるような冷たい山の空気を胸いっぱいに呼吸した。

このころまた木曽山をめぐる村民と県の争いが起こる。かつての経験をもとに半蔵も協力しようとするが、封建時代の末端にいた半蔵には、新たに争うものがよりどころとする「民有の権」が理解できない。半蔵の酒は深くなるばかりであった。半蔵は酒を制限される。

そうしたある日、半蔵はついに狂う。明治十九年の春の彼岸がすぎたある夜、半蔵はふらふらと寺に行き、火をつけた。半蔵の放火は、神仏分離すらまっとうできなかった明治維新の現実を、国学の徒であろうとしたものとして、許すことができないが故のことであった。

こうして半蔵は長男に縄で縛られ、息子たちや村人が用意した座敷牢に入れられる。幽閉の日々である。わずかに古歌をしたためるひとときがあったものの、狂気の人となって没する。鉄道の時代がはじまっていた。青山半蔵は廃れゆく街道とともに生涯を閉じた。まだ五十六歳だった。


AozoraGakuen
2017-03-01