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第二章 明治維新と国学

明治維新とは

この明治維新はいったいどのような変革であったのか。結論をいえば、これは資本主義革命そのものであった。それは、封建社会から近代資本主義社会への転換を実現するべく、新興の商業資本家とその利益を担う政治勢力が中心になって、封建支配のもとで苦しんだ広範な社会層を決起させ、封建社会の支配権力を打倒し、資本主義社会に道を開く政治権力を打ち立てることである。その典型が一七九八年のフランス革命であった。

これに対して「明治維新はフランス革命のようなブルジョア革命とはいえず、明治維新によって成立した政権は絶対主義政権である」という説が日本の歴史学界では有力である。

この観点は、コミンテルンの「三二テーゼ」と、それに依拠した日本共産党およびいわゆる講座派のマルクス主義史学の立場から発している。こうした傾向を決定づけたのが、山田盛太郎『日本資本主義分析』(一九三四)であった。絶対主義天皇制は半封建制の上に立っていて、半封建制は絶対主義の必要条件であるから、半封建制の解体とともに絶対主義天皇制も崩壊する、とするものである。

それはやがて日本戦後の近現代史学の有力な潮流となる。藤田省三も『天皇制国家の支配原理』(一九六六)で「明治維新の劃期的意義が絶対主義と民族主権国家を形成したてんにあることは、周知に属している。」と第一章を始めている。

これは歴史現象の複雑さに惑わされて本質を見失った、木を見て森を見ない論である。フランス革命を美化するあまり、民主主義が実現しなかったが故に、明治維新はフランスのような革命とは言えないとするのである。

フランス革命とて、一七八九年の革命以降、激烈な内部闘争を経てナポレオンがクーデターによって権力を確立、共和国八年の憲法で革命の幕を閉じる。待っていたのはナポレオンの軍事独裁である。人民の蜂起によって絶対主義王制の独裁者を倒した革命は、こうして新たな独裁者を作り出しているではないか。

維新の原動力

革命の主力となって働いたのは封建制に反対する農民であり、貧農大衆である。江戸時代末期の百姓一揆や打ち壊しは実に激烈なものであった。

幕末期には、労働集約的な工場制手工業が発展し、農民層の内部に小作農からも没落した無産の労働者層を生み出し新たな対立が生まれていた。とくに安政年間の開港以後良質な銀貨の流出、絹糸などの産物の輸出などが引き起こした急激な物価変動は、農地をもたない農民層をいっそう窮乏させた。

彼らを主体とする経済的平等を求める世直しの闘争が、幕末一揆の中心となった。さらに慶応期にいたって、幕府と長州の戦争、全国的な内乱状況は世直しを激化させた。慶応二年(一八六六)の江戸や大坂の打毀しは、百姓一揆と同時的に起き、速やかに伝播、動乱というべき段階に達していた。同年の武州一揆、奥州信達一揆、幕長交戦地の一揆などとあわせて、幕長戦争に苦戦する幕府権力に大きな打撃を与えた。この闘争は「ええじゃないか」の民衆運動とともに、江戸幕府滅亡の原動力となった。

そしてこの革命の政治を指揮したのは勃興した都市商人階層とその利益を担った下層武士団であった。都市の大商人たちが革命軍の財政を一手に引き受けていた。

都市大商人は徳川封建制を打倒するために勤労人民と農民を味方につけ、その旗には、はっきりと民主主義的自由の文字をかきしるした。明治維新の先鋒となった赤報隊は「年貢半減」の標語をもって行進し、貧農大衆の熱烈な歓迎を受けた。

だが、徳川封建制の崩壊が明確になり、討幕派の権力が樹立されるやいなや、民主主義的自由の旗は投げ捨てられ、都市商人による独裁が実現された。赤報隊は「偽官軍」とされ、隊長相良総三は理由も告げられぬままに斬殺された。この背後には「相良を斬れ。そうしなければ金は出さない」という大商人たちの意向があった。

このように、明治維新は日本における資本主義革命そのものであつた。封建制の内部に成熟した商品経済と貨幣経済、そして資本主義はもはや古い封建制を打破しなければ発展し得なかった。土地から切り離された「自由」な労働者を求めていた。彼ら都市の資本家たちは、封建制度のもとで苦しめられていた、農民、下級武士、天皇のまわりの下級公卿と貴族、これらと連合し、この力で薩摩藩と長州藩などを連合させ、「倒幕・王政復古」を実現した。

この大号令が発せられた慶応三年(一八六七)十二月九日、十六歳の天皇の前で開かれた封建体制下の最後の会議は、すべて薩摩と長州の手によって準備されたものであり、しかもこの日には朝廷のまわりは倒幕軍の総司令官である西郷隆盛が指揮する大軍によってとりかこまれていた。西郷が発したあの有名な一言「短刀一本あればすべて済むことだ」というこの力が天皇の号令をひき出したのであった。

まさに、天皇の命令はすべて倒幕軍の力が出させたのであった。当時、幕府軍と倒幕軍の双方の間では「玉(ぎょく、天皇のこと)をどちらがとるかが勝負だ」といわれていたのをみても、天皇をかついですべては革命軍がやったことであった。

明治維新の時代、西洋資本主義はすでに独占と帝国主義的な段階に到達していた。日本の資本家階級は大急ぎで日本資本主義の発展、強化、拡大をはからねばならなかった。産業政策から文教政策まで上から国家権力を最大限に動員して進めなければならなかった。富国強兵、文明開化、資本主義育成、学制発布、地租改正、秩禄処分を強行し、農民一揆、士族反乱、自由民権運動を弾圧した。

明治政府は、過酷な搾取と収奪に対する農民一揆が多発するなか、一八七一年(明治四年)に「えた」「非人」の名称を廃止し、身分と職業を平民同然とするとの布告である「身分解放令」を発する。同時に「新平民」等の官製差別用語まで作り差別をあおり、労働者や農民の怒りをそらす人民支配の道具として部落差別を再編した。

明治維新後、日本国は玉たる天皇を帝国主義の旗印として前進し、いっきょに資本主義へ移行、日清戦争と日露戦争を経て帝国主義へと転化していった。明治維新にはじまる近代日本は、事実として、日本資本主義、日本財閥、独占資本の巨大な権力の支配する時代であった。

国学の基盤

多くの志士たちがよりどころとした思想は国学であった。国学はどのように形成され、変革主体の思想となったか。

その基礎となるのが、日本にはじめて生まれた歴史書である『古事記』と『日本書紀』である。ユーラシア大陸や太平洋諸島に一定の広がりをもつ創世神話と、これに王権の究極の根拠は天上の神であるとする物語をあわせたものであり、そうすることでこの世の起源から天皇中心の王朝成立、およびその正統性の根拠を体系的に述べたものである。この二つの歴史書は、宗教的日本神話にもとづく大和朝廷の正統性の確認と、天皇は万世一系であることを宣言したものであった。

『続日本紀』の養老五年(七二〇)五月条に「日本紀を修す」とあるように『日本書紀』が養老年間に成立したことは確かである。それに対して『古事記』は本当に和銅年間に成立したのか平安初期に成立したのかなど議論がある。実際、『古事記』は長く公の場には現れなかった。

『古事記』を発見し、一君万民の皇国王義思想の原型をつくりあげた人こそ江戸時代中期の国学者、本居宣長(もとおりのりなが、享保十五年〜享和一年、一七三〇〜一八〇一)であった。

現在の『古事記』という文書は、彼の『古事記伝』中に初めて出現した。宣長は『古事記』のなかに、原日本語を発見した。『古事記伝』は営々三十五年の営みである。

神道は中世以来、仏教と習合し、仏が神の形をとって日本列島に現れたとする本地垂迹説が一般的になっていた。本居宣長はこの仏教と神道の習合から、神そのものを改めて取り出した。そして、宣長は『古事記』を再発見し、そこに描かれた「神と日本」こそ固有の「日本」であるとしたのである。

近代の国家は「国民」を定義することを求める。「日本人」を定義すること、これが本居宣長の仕事である。そして宣長は「敷島の大和心を人問はば朝日ににほふ山ざくら花」を心とするものが「日本人」であり、日本人のクニが「日本」であると定義したのである。

十六世紀後半から十七世紀初頭にかけて全国を統一した織田信長、豊臣秀吉につづく徳川家康による江戸幕府は、天皇を擁して自らの権力と政治支配を確立した。幕府は朝廷に小大名なみの御料(領地)と公家領をあたえ、幕府の援助で祭司的行事と、天皇制は残した。しかし幕府は天皇が政治上の実権をもつことは許さず、朝廷を厳しい統制下に置いた。天皇は名目的な作暦、改元、叙位任官の祭司的役割を保持していたにすぎなかった。権力は封建領主としての武士、武家がにぎっていた。仏教寺院は宗門改めや宗門人別帳などによって百姓、人民の管理を行い、封建支配体制を補完していた。

本居宣長の時代はすでに生産力はいっそう高まり、商品経済、貨幣経済がすべての生活を支配するようになっていた。つまりは町人、商人が経済上の実権をにぎってきたということである。しかし政治上の実権は封建領主・武士階級(当時は徳川幕府)がにぎっており、その幕府の政治思想は中国からきた儒教であり、そのなかでも、一国の政治支配の安定は階級制と位階勲等にもとづく秩序の維持にあるとする政治学を含む朱子学が支配していた。ここに経済上の実権者と政治上の実権者との矛盾が激化しつつあった。

このような新しい時代、歴史の要求にこたえて出てきた新しい思想こそ、一君万民の古代へ立ち返れ、という皇国主義思想であった。一七〇〇年代に本居宣長が説いたのは、日本国は神の国であり、神は天皇である。故に神たる天皇こそ唯一の統治者であり、その神の前では万民は平等であるということであった。これはまさに徳川封建制度に対する批判であり、反逆であった。一君万民思想は封建身分制度を内部から爆砕する。

本居宣長自身は江戸徳川の体制がまだ揺らいでいない時代に活動し、政治的配慮をこめて、「道をおこなふことは君とある人のつとめ也、物まなぶ者のわざにはあらず、もの学ぶ者は道を考へ尋ぬるぞつとめなりける」(『玉かつま』)と、自らの任務を真理の探究に限定し、「やすくにのやすらけき世に生れ遇ひて安けくてあれば物思ひもなし」(『百鉾百首』)とする非政治的な人生観を公にしていた。

が、言葉から入って古代に仮託された人間を発見したことは、それ自身、封建体制を倒す方向へ人々をまとめていく力をもった。神たる天皇の前では万民は平等という思想は封建体制と両立し得ない。

篤胤の古道

平田国学こそ青山半蔵が生涯の思想としたものである。『夜明け前』は国学を次のようにいう。

あの賀茂真淵あたりまでは、まだそれでもおもに万葉を探ることであった。その遺志をついだ本居宣長が終生の事業として古事記を探るようになって、はじめて古代の全き貌を明るみへ持ち出すことが出来た。そこから、一つの精神が生れた。この精神は多くの夢想の人の胸に宿った。後の平囲篤胤、及び平田派諸門人が次第に実行を思う心は先ずそこに胚胎した。何と言っても「言葉」から歴史に入ったことは彼等の強味で、そこから彼等は懐古でなしに、復古ということをつかんで来た。彼等は健全な国民性を遠い古代に発見することによって、その可能を信じた。それには先ずこの世の虚偽を排することから始めようとしたのも本居宣長であった。情をも撓めず慾をも厭わない生の肯定はこの先達が後から歩いて来るものに遺して置いて行った宿題である。

平田篤胤(ひらたあつたね、安永五年〜天保十四年、一七七六〜一八四三)は、出羽国秋田佐竹藩の藩士の子として生まれた。幼少期に、浅見絅斎の流れを汲む中山青我に漢籍を学んだ。二○歳のとき江戸に出て苦学し、二五歳のとき備中松山藩士平田篤穏の養子となって藩主板倉家に仕える。本居宣長の古事記伝のことを妻に教えられ、ここに求めていたものがあると、古学に打ち込む。宣長に入門せんとするも宣長没により果たせず。三三歳のとき神祇伯白川家より神道教授、吉田家より学師の職を受ける。つまり、神道界はすべて平田篤胤の思想のもとに入った。没年に至るまで、該博の学殖をもって著述に従った。

篤胤は自らの学問を古道学(古学)ないしは皇国学と称した。古道とは、彼によれば、

古へ儒仏の道いまだ御国へ渡り来らざる以前の純粋なる古への意と古の言とを以て、天地の初めよりの事実をすなほに説考へ、その事実の上に真の道の具わってある事を明らむる学問である故に、古道学と申すでござる(『古道大意』上)。

宣長は、内にさまざまの思いを秘めてはいても、『古事記伝』はあくまで「事実としての古代」を明らかにするという態度で一貫していた。

それに対して平田篤胤は行動の人であった。その思想は、実践的意思的性格を強くもち、早くより大衆への講説を主要なる活動とした。また、一貫して儒教、仏教、神道諸派などはげしく闘った。

篤胤の時代、北方ロシアが幾たびとなく近海に現れ開国を迫った。また篤胤は、キリスト教や西洋文物にも深い関心と理解をもち、迫り来る対外的な危機を見通していた。

平田篤胤の膨大な諸作の中で思想的な中心は『霊の真柱』である。この著作の目的を「大倭心を太く高く固めまく欲するには、その霊の行方の安定しることなも先なりける」と延べている。つまり西洋帝国主義の圧力をひしひしと感じつつ、この対外的危機に対する「国民」の思想主体の形成を目的としたのである。

そしてキリスト教的創世神話や旧約聖書を念頭に置きつつ、天御中主神を創造主とする一貫した神道神学を、記紀神話を再構成する『古史成文』『古史伝』の営為をもとに、造りあげようとする。

さらに平田篤胤は、天皇のもとにおける人民の平等を「御国の御民」としてのべていく。一君万民思想の展開であった。篤胤自身は幕藩体制それ自体を否定したのではない。ただ、古の人間に託して人間の生き方を提示した。

しかし、それは、江戸幕府を支えてきた儒教的、朱子学的世界観を一掃するものであるだけではなく、一君のもとにおける万民の平等という思想は、必然的にそれを抑圧する幕藩体制への批判を内包した。平田国学は一つの大きな政治的社会的力となった。篤胤は全国に四千人を越える弟子(死後の弟子を含め)をもち、その膨大なつながりは、幕藩体制にかわる世を求める運動の基盤となった。


AozoraGakuen
2017-03-01