「数学教育とは,出来上がった数学(カリキュラム)をどう教えるかを問題にするものであり,教育数学は教育の諸々の諸相から実際に数学者がかかわることの出来る部分を取り出す営為である」というのが,この共同研究の主宰者・蟹江幸博氏の定義である.このような研究がさらにひろく展開されることを願っている.
しかし,教育数学の真の課題は,このように混迷している今日の高校数学と大学初年級の数学教育に対して,新たな方向を示すものでなければならない.
そして,教育数学が提起されたこの数年,この課題に関していささかでも前進があったのかといえば,現実はまったくそうではない.
やはり,近代150年,西洋式の数学はまだこの日本の現場には根づいているとは言いがたいのである. では,少なくとも数学教育のそれぞれの場で関わるものが,自覚的につかまねばならないことはどのようなことであるのか.
これらを実際にやってみることが高等数学の教育である.そして,これは十分可能である. 問題は.数学教育に携わるものの,そのための教育であり, 数学教育に携わるもの自身の学ぶべき内容の提示,ここに教育数学の実践的な意義がある.
私は,『数学対話』の「量と数」において,次のように書いた.
数学の教育においては,その根幹に,わかる喜びの継承がなければならない,と考える.高校生に数学を教えることを生業としてきたが,授業というのは,わかる喜びを体験する場なのだということが,経験を通しての確信である.生徒が自ら問題を正しくつかみ,自分で考え,わかってにっこりする.それが「学問としての高校数学」を生きた学問にする.「理解はできるが,納得できない」段階からの飛躍である.その指導に方法としての数学教育の難しさと醍醐味がある.
しかしそれを可能にする前提として,教えるもの自らがわかる喜びを経験していなければならない.「わかった」という経験のないものが数学を教えるなら,生徒たちがわかる喜びを経験するように指導することは難しい.「わかる喜びの継承」は文化である.授業を通してわかる喜びを次代に伝える,ここに数学教育の根幹があり,それを可能にするのが教育数学である.
つまり教育数学とは,わかる喜びの継承を根幹とする数学教育において,それに携わる者自身がそれを研究することをとおして自らわかる喜びを経験する場でなければならない.
例えば,私自身が『幾何学の精神』を学び書いてゆく過程は,私の「わかった」という場であり,これを行うこと自体が教育数学の素材であると言える.
こういう自らの経験をふまえて言えば,高校や大学初年級の数学教員は,一定の公理系からすべてを演繹することも一度はやらねばならず,それを貴重な経験にとしてもたねばならないし,そういう問題提起もまた教育数学の役割である.
教育数学への問題提起と,そして問題は開かれたままであることの指摘をもって,本報告を終わりたい.
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