高木貞治は『近世数学史談』のなかでポンスレの生涯を次のように感慨深く述べる. 文中「Traitéの新版」とは,『解析学と幾何学の応用』("Applications d'analyse et de géométrie",1862〜1864年)のことである.
モンジュ門の出藍は射影幾何学の開祖なるポンスレである。ポンスレ(Jean victor PONCELET,1789〜1867)はモンジュ,カルノーとは違って北フランス(Metz)に生れた。工芸学校を出てから工兵少尉としてメッツの実施学校に入り,1812年の始めナポレオンの征露軍に従い,同年11月ロシア軍に捕われて二年間をサラトワの獄舎に送った。幽囚無聊のこの二ヶ年が射影幾何学を生み出したことは数学史上の奇観というべきであろう。ポンスレは同囚の若干のポリテクニシァンを相手にして彼の新学説を講じたという。彼の名著『図形の射影的性質の論』(Traité des propriétés projectives des figures)は平和克復の後,1822年に至って発行された。中年以後ポンスレはパリに在って軍政に参与し,一時はソルボン(パリ大学)の力学教授でもあったが,後に工芸学校長に任ぜられ,又ロンドン,パリの博覧会に関係し,行政的方面に於て多忙なる一生を送った。それは栄達の一生であったが,晩年 Traité の新版を出す(1864〜66)に際して,俗塵の為に幾何学から遠ざかって,彼の天職と信ずる所に進むことを得なかった不運をかこっている。彼は1867年に歿した。
ポンスレの射影幾何学はドイツに於ては Möbius,Steiner,Plücker 及び Staudt に由って,又自国に於ては Chasles に由って継承せられて早かに発展した。ポンスレの歿した1867年は Salmon の幾何学三部書が完成した後五年である。五十年前に紅顔の青年士官がサラトワの獄舎の徒然に繙いた種から思いも寄らない大森林が生じた。古典になった旧著の新版の校正刷を読みつつ,白髪の老将官は今昔の感に湛えなかったであろう。
射影幾何や非ユークリッド幾何が発展した幾何学の黄金時代とは,西洋世界の激動期でもあった. ポンスレはそれまでの射影幾何を一歩も二歩も推し進めた. そして,曲線束に関するポンスレの定理といわれる定理に至った. それをもとにするポンスレの閉形定理は, 二次曲線固有の定理として実に不思議で美しい.
この時代の中に生まれたポンスレの一連の定理を学ぼう. ポンスレの方法につながる射影幾何的方法,その後見出された代数的方法, ポンスレの定理の表明のすぐあとに示されたヤコビの解析的方法, そして近年再発見されてきた代数幾何的方法,がある. ここでは高校数学の基礎研究として解析的方法までを先ず示そう.
以下係数体は複素数体であるとする. くりかえしになるが,公理系から構築されてきた射影幾何において「図」はユークリッド平面におかれた図形の点や直線ではないことを確認したい. あくまで,共線,共点関係の象徴的な記号として用いる.
これをポンスレの閉形定理という. ポンスレの閉形定理を定式化するときにつきまとう問題の一つに, 例外をどのように除くかということがある. この定式化は,各がとの交点でなく, 接線も共有接線ではないものが一組とれることと同値である.
ポンスレの定理はパスカルの定理と同じく射影幾何の定理である. その意味をくりかえせば, ポンスレの定理は射影平面におかれた二つの円錐曲線に関する射影幾何の命題であり, 命題の成立は,射影変換で保存される. したがって,二つの円錐曲線を射影変換で変換可能な単純な場合に証明すれば, 一般の円錐曲線で成立する.
後に示すが,閉形定理の根拠となる定理12をポンスレの定理という. あるいは閉形定理のこともポンスレの定理という. 円錐曲線の非常に美しい定理とて名高い. 幾何的な証明,代数的な証明,そして代数幾何的な証明がある. 代数幾何的証明は,楕円曲線の準備がいる.