より
つまり
でも,「はさみうちの原理」というにしては簡単すぎるし,これで証明になっているのでしょうか.
南海 ともすればこのように考えやすいが,これは「はさみうちの原理」の証明としては不完全だ.
一般に,極限の入った等号は何を意味しているのかといえば
ということだ.
史織 すると,私の証明では,数列が収束すること,極限の存在の証明が抜けているのですね.
でもそれはどのようにして示せばよいのですか.
南海 そういうときは「定義にかえれ」だ.数列が値に収束するとはどういうことか.
史織 「が大きくなればの値がに近づく」ということです.
南海 「近づく」というのはどういうことか.
史織 「数直線上の距離が小さくなる」,ですか?
南海 そうだ.つまりがいくらでも小さくなるということが, 数列が値に収束するということの定義だ.
史織 でも,「いくらでも小さくなる」が「0に収束する」ということなら, 「収束」を定義するのに「収束」を用いたことにはなりませんか.
南海 うーん.それは鋭い質問だ.「いくらでも小さくなる」といったあいまいな言葉を使わずに 収束することを定義しなければならない. いろんな人もこのようなことを考えた.そこで考え出されたのが次のような定義だ. これは「実数の連続性と代数学の基本定理」で同じことが言われているのだが,改めて 数列「収束」を定義しよう.
数列と数がある.
任意の正の実数に対して,番号で
であるすべてのについて
となるものが存在するとき,
が
存在し,極限値がであると定める.
「任意の正の実数に対して,番号で…となるものが存在」というところは 「どのような小さい」正の実数が指定されても,それに対して,「つねに」番号が存在する, ということなのだ.そのような副詞を省いて論理の骨子で言うと先のようになるのだ.
この定義がわかりにくいときは例で考える.数列を
とする.
これはもちろん1に収束する.を
にして,ある番号より大きい番号では
史織 (少し考え)ですね.そうか, より小さくしたければだ, どんなに小さいでも,つねに番号は存在しますね.
では,
も1に収束しますが,
南海 いろいろ考えるな.一般には具体的にを求めるのは簡単でない.
史織 実際にを求めるということではなく,が存在するということで,「収束」を定義するのですね.
この「収束」の定義って「いくらでも」とか「近づく」とかのよくわからない言葉が入っていませんね.
南海 そうなのだ.
その代わりに「任意の」という論理の言葉が入る.これがいわゆる 論法というもので, 大学初年に習う解析の最初の関門だが,このように考えれば自然な発想であることがわかる.
史織 今はではなくでしたが.
南海 論法は次のように を定義する.
関数と数がある.
任意の正の実数に対して,正の実数で
であるについて
となるものが存在するとき,極限
が存在し
極限値がであると定める.
史織 これもわかります.
南海 いずれにせよ,このような厳密な定義があるということを知ったうえで, 数列が数に収束するとは, が大きくなるとき,絶対値がいくらでも小さくなることと理解すればよい.
この定義のもとではさみうちの原理を証明しよう.
条件のもとで,がいくらでも小さくなることを示せばよい.
よって数列はに収束する.つまり
史織 三角不等式ですか.
南海
そう.そこで注意を一つ.
はさみうちの原理は のいずれもが定数でないときに両方が同じ値に収束すれば, も収束してその極限値がであることを示すものである.これはしっかりと押さえておきたい.
南海 せっかく収束を厳密に考えたのだから,次のことも示しておこう.
2つの数列
がすべてのでを満たし,各々が収束すれば
史織 それぞれの極限を とする.であると仮定する. より小さいをとる.が存在してに対して , となる.
このとき図のようになので,条件と矛盾した.
南海 これでよい.