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専従として

  今も徳田球一を尊敬している。当時、徳球を継承することを掲げる党派は他になかった。この党派で専従活動を行うことになった。なんでそんな危ういことをとあきれる者もいたが、教員活動家ではない普通の教師がむしろいろいろと励ましてくれた。党派専従となってからは、機関紙編集部に勤め、組織中央に入って西日本の責任者になった。その一方で企業経営もした。私にとっては結構困難な時代であった。

  生活は激変した。党の経営する輪転印刷機をもつ工場が財政を支えていたが、乏しいものであり、生活費もままならないようになっていった。財政に少しでも寄与すべく、版下制作、印刷の経営を起こしたり、さまざまの借り入れをおこなったりしながら、一日一日を生きていくという風であった。 一九八九年二月、このような経済的負担に耐えかねて、基幹工場の党がまとまって脱走するという事件が起こった。この問題を「党からの経済主義グループの脱落は、わが党における左翼再編成」と位置づけ、とにかくがむしゃらに財政を回し、機関紙を出し続けた。バブル経済の時期であったから数年は自転車操業ができた。

  大阪に『人民新聞』という新聞が出ている。そのグループの中心の上田等さんは、共産党の五〇年問題の時代から徳田派であり、六全協のあとも宮本に反対し抜いた人であり、党の議長とその点で同じ立場であった。九〇年に上田さんらと再会、政治、経済での協力関係ができつつあった。彼らは幅広く経済活動をおこない、その中で中国ともつながりがあった。彼らの世話で、一九九一年三月、二度目の中国旅行をすることができた。

  彼らからはいろいろと財政的な支援も受けた。多くの迷惑もかけた。その後私が組織を離れてからも、個人的にも大きな援助を得た。しかしにもかかわらず経営は困難を極めた。資本主義の包囲のなかで社会主義を建設していこうとする党が、バブル経済に振り回され、支持者から提供されていた土地を担保にビルを建て、建物を担保にまた借り入れを起こす、実質的な生産活動よりも当座のやりくりを優先させていたのだから、話にならないのであるが、当時はそこまで考える余裕すらなかった。かくして大阪でも新しい自社ビルを建て移転した。すべてバブル経済の産物だった。九三年にはこれらの建物もすべて人手に渡った。

  この党派は実践性が皆無だった。ただただ企業活動からカネを吸い上げ機関誌を出すだけであった。拠点経営も結局離れていった。内部にいて、このようなことでは社会主義企業の建設など不可能だと思った。バブル経済の時代であった。左派党派がバブルに踊らされていた。 一九九三年の秋、バブルの崩壊とともに党の企業群が軒並み連鎖倒産した。経済的な崩壊はそれだけでは思想的なあるいは経済的な崩壊にはならないはずである。しかし、その過程で、「この党では革命はできない」と考えなければならない事実が続出した。

  企業の倒産、経済の崩壊という事態をうけて、中央の会議が開かれた。この討議では明確に二つの違う考えが存在した。

  第一、党のやってきたことは正しい。党の危機ではない。現在の事態は党を取り巻く諸条件が困難であるためにおこった単なる経済上の困難であり、今までどおり闘い続けるべきだ。
 
  第二、それは外因論だ。問題は内因にある。党が実際にやってきたことは失敗であり、敗北した。総括し根本的に転換しないかぎり、このままではだめである。

  これは相反する考え方であり、私自身は、 第二の立場であった。そして、「今日の事態は敗北なのか相対的な経済的困難なのか。党内には今回の事態を相対的な問題とみなし、従来の作風のまま党活動を続けていこうとする潮流が依然として存在している。だが、事実は敗北であり、作風の根本的転換なしに党の再生はあり得ない。敗北した事実は何か」と私自身の問題として次のことをあげた。

  借りるときには泣き落とし、返す段になって無いものはないと約束は破る、企業の経営・資金運用を無視して『企業を潰すわけにはいかない』と何でも持ち出す、大衆の財産を金融屋に注ぎ込む自転車操業、『この金があれば』『ここさえ突破すれば』と資金を動員するがそれが何度も何度も繰り返される、こういったことを企業建設の名のもとにしてきた。

   『いつまでに返す』という約束がその場しのぎで言われ、返らないことを問いただされると『それは努力目標だ。社会主義の崩壊と経済テロが党の経済的困難の原因だ。返せないのはそこに原因がある』と言う。いよいよ経済的に責任が取れなくなると『どう政治的責任をとるか』と考える。経済を政治で支払おうとする。私自身ふりかえってこういう作風であった。だがこれは私だけのことではなく全党的にこのようにやって来たのではないだろうか。

   貸したほうからすれば『社会主義の崩壊とか経済テロとかの経済的困難は始めからわかっていた。そのうえでいつ返すと約束したのではないか。始めから返す気などなかったのか。だます気だったのか』ということになる。また、経済的責任は経済のなかで果たさなければならず、政治的な手形を切って経済に代えようというのは内容も方法も独裁であり、それは党のおごりである。

   資金動員に応じた大衆は、『何か信念をもってやっている』と感覚的につかみ、結局のところ『共産党だ』ということを承知し、またそのゆえに、資金動員に応じてきた。手形の交換に応じてきたのも単なる経済上の理由だけではない。 それが今や『共産党がそんなことしてよいのか』という声が渦巻くまでに至っている。手形の交換に応じてきたために倒産の瀬戸際にいるある企業の社長は、『われわれをこういう事態に追い込んだ党とはいったい何なのか』と、私の家に直接来た時に怒りをもって言ったが、これは氷山の一角である。

   組織の道徳的権威はうち捨てられ、大衆から軽蔑され背を向けられる存在になってしまった。これが現実である。まじめな直接に大衆と接している党員、労働者・生活者としての常識をそなえた党員が、このような現実に直面し、耐えがたくなって去っていった。この間去っていった党員は、組織が大衆の信を得られなくなっていることに耐えがたくなって去ったのである。本当に大衆に対して権威と道徳性のある組織であれば、経済的困難に耐えられる。そうでなかったから、経済を理由に去っていくのである。

   経済のために権威を投げ捨てることは経済主義そのものではないか。われわれは経済を軽視した結果経済に復讐されたのである。これは敗北である。

   この事態のなかで、私の励みになったのは、中国革命で毛沢東の提起した「三大規律・八項注意」だった。同じ会議で、次のことを提起した。

  われわれの『三大規律・八項注意』を。

  毛沢東は、一九二七年秋の収穫蜂起の後のもっとも困難な時期に、党と軍の改編をおこない、部隊に武装宣伝隊の任務を与え、まったく新しい軍隊であることを宣伝させた。その前提として、『三大規律・八項注意』を提起し、高い倫理性を備えた軍に生まれ変わらせ、中国共産党の権威を人民のなかに打ち立てていったのである。このときも飢えのために敗走の軍の規律は乱れ、人民に恐れられていたのである。これをつくりかえたのである。

  われわれもまた、その段階に至っている。われわれ自身が提起した、『人民戦線とは真の人間性(階級的人間性)、真のヒューマニズム(革命的ヒューマニズム)、真の人間愛(共産主義的人間像)にみちた人びとの集りであり、そのような闘いと組織と集団をめざす運動である!』ということを、みずから事実をもって実践しなければならないのである。
すでに明らかにしたように、実際にやってきたことは、主観的にどうであれ客観的にはまったく逆のことを積み重ねてきた。

  いま『三大規律・八項注意』として定式化することは力に余る。この間の教訓としていえば少なくともつぎのような自己規律が必要である。これは自己規律であり、党内、党外問わず実行しなければならない。

   実際はこれとは全く逆に進んだ。その後の、二年間の倒産の事後処理の過程で、すべての人間がその本性をさらけ出した。当時の政治局は、抱えた負債に対して自己破産するという方針を提起し、実際そうしていったが、私はその方針は敗北主義であると考えた。なし得るすべての努力はすべきであるし、いろいろな協力者との手形の融通関係のなかでは、自己破産は直ちに協力してくれたものが行き詰まることを意味していた。それでも自己破産するなら、これまでの党への協力者を裏切ることになると考えた。

   こうして最終的に九三年、実質的に組織は解体した。私は革命党としてその組織は終わったと認定し、そこを離れた。連続革命論と日本革命の伝統の継承、それは革命党の必要条件であった。しかし、それだけでは現代革命を担う党派としてはまったく不十分であった。党派としての実践性を欠落させていた。

  その実践性は、実は言葉に対してどのような態度をとるかによって、定まる。日本の左翼党派はおしなべて翻訳語の世界の内にある。もとより社会主義思想そのものは、歴史の総括を踏まえて生みだされ、闘う現場には外から持ちこまれる。しかしその言葉が翻訳語そのままでは、長い歴史と固有性を踏まえた思想はとはならない。

  レーニンが『哲学ノート』で言っているように、普遍性は個別性をもって実在し、弁証法的な普遍性は実在するな個別性と不可分である。しかしこの言葉の意味を、日本の左翼党派は理解していたか。

  人は言葉によって人間である。人をして人間とする言葉、それを固有の言葉という。人間の条件としての言葉、それが固有の言葉である。新しい言葉は固有の言葉から拓かれねば意味をもたず、考える力は固有の言葉を耕さなければ成らない。人間は固有の言葉で夢を見る。夢見る言葉で思い、考え、そして語る。それなくしてどうして言葉が人の心に届くだろう、どうして言葉が人と人を結ぶことができるだろうか。

  私自身が機関紙部にいた。したがってこれは自己への批判でもあるのだが、左翼党派の言葉は働くものの心には届かない。

   私にとっては、思想的にも実践的にもすべては一からの出直しになった。とりあえずは少なくない経済負担をどのように処理するかが、火急の問題であった。組織は一切の負債を個人に負わせたまま逃亡し続けた。個人保証した負債はすべて自分でかかえながらの出直しであった。多くの友人の協力を得た。弁護士の友人は可能のことはすべてやってくれた。昔の職場の仲間は、これで食いつなげと塾講師の仕事を見つけてくれた。こうしてさまざまの問題を一つ一つ乗りこえてきた。

   再び大阪北摂の上田等さんには一方ならぬ世話になった。上田さんの助力がなければどうなっていたかわからない。上田さんは、一九二八年八月生まれ、一九四六年、十八歳で日本共産党入党。朝鮮戦争に際し、大阪の地で反戦闘争を闘い、いわゆる吹田操車場闘争の中心にたって闘った。一九六四年日本共産党除名。以来紆余曲折を経ながら、一貫して大阪北摂地域にあって、日本革命と人民の解放のために闘い、二〇〇七年一月二〇日、その生涯を閉じられた。上田さんには心から感謝している。私が上田さんたちに負った債務を最終的に処理できたのは二〇〇九年の一月十九日、上田さんの三回忌の前日だった。上田さんがもういいだろうといってくれたような気がしている。またこの頃数年間、家族、兄弟にも多大な迷惑をかけた。それらを忘れることはない。

   振りかえれば、私のなかに、人生の求道や根元的な文化問題の解決を、党組織活動に携わることによって実現しようとするところがあった。求道を党活動に置き換えてしまうところがあった。その崩壊から、問題をそのものとして内部から解決していかないかぎりだめであって、党は問題の解決にはならないし、革命もまたないのだということを、思い知った。


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