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あのすなおな心

このように神仏習合は自然なことであった。しかし、幕末の討幕運動は神仏分離を掲げる。それもまた理由のあることであった。

江戸時代の幕藩体制のもとで、寺は宗門改めや宗門人別帳などによって、民百姓の管理を行い、封建支配体制の末端を担っていた。したがって、討幕運動が、幕藩体制のもとにある寺から神道を切り離すことを掲げたのは、当然のことであった。江戸時代の神社は、その意味で幕藩の支配体制から離れており、それだけに神社は、本来の神道がさまざまに生きていた。

また、徳川家康にはじまる江戸幕府は、天皇を擁して自らの権力と政治支配を確立した。幕府は朝廷に小大名なみの御料(領地)と公家領をあたえ、幕府の援助で祭司的行事と、天皇制は残した。しかし幕府は天皇が政治上の実権をもつことは許さず、朝廷を厳しい統制下に置いた。天皇は名目的な作暦、改元、叙位任官の祭司的役割を保持していたにすぎなかった。権力は封建領主としての武士、武家がにぎっていた。

このような封建幕府の時代に,歴史の要求にこたえて出てきた新しい思想こそ、一君万民の古代へ立ち返れ、という皇国思想であった。一七〇〇年代に本居宣長が説いたのは、日本国は神の国であり、神は天皇である。故に神たる天皇こそ唯一の統治者であり、その神の前では万民は平等であるということであった。天皇を実権のないものに祭りあげてきた徳川封建制に対する批判であり、反逆であった。一君万民思想は徳川時代の封建身分制度を内部から破砕する。

人が神であるという考え方はわれわれが定義した神道のものではない。また民俗学的研究によっても、人を神とする考え方が江戸期までの民俗になかったことは実証されている。人は神の言葉を聴くものであり、あるいはまた神が人に憑いて言葉を伝えるものであるが、人は神ではありえない。本居宣長の言説には、深い矛盾が存在している。同時に、彼をしてこのように言わしめた、封建体制の閉塞を打ち破ろうとする情念もまた、認識しなければならない。

そして、平田篤胤は、天皇のもとにおける人民の平等を「御国の御民」としてのべてゆく。一君万民思想のさらなる展開であった。篤胤自身は幕藩体制それ自体を否定したのではない。ただ、古の人間に託して人間の生き方を提示した。しかし、それは、江戸幕府を支えてきた儒教的、朱子学的世界観を一掃するものであるだけではなく、一君のもとにおける万民の平等という思想は、必然的にそれを抑圧する幕藩体制への批判を内包した。

平田国学は一つの大きな政治的社会的力となった。篤胤は全国に四千人を越える弟子(死後の弟子を含め)をもち、その膨大なつながりは、幕藩体制にかわる世を求める運動の基盤となった。そしてついに幕府は倒れ、明治時代となる。

倒幕に総てを託した志士たちが願ったことを、島崎藤村はその著『夜明け前』で、主人公青山半蔵の青年時代の言葉として次のように言う。

古代の人に見るようなあの直ぐな心は、もう一度この世に求められないものか。どうかして自分らはあの出発点に帰りたい。そこからもう一度この世を見直したい。

また藤村は、晩年の半蔵には「古代の人に見るようなあの素直な心」と言わせている。「あのすなおな心」こそ、島崎藤村がいまに残した貴い言葉である。封建体制を打ち破り、そのもとで押し込められてきた人の心を解き放ちたい、これが倒幕に生涯を捧げた志士たちの心であり、その彼らが願ったことこそ、「あのすなおな心」である。神社を寺から切り離し、「あのすなおな心」を世にとりもどしたい。こう考えたものたちが、倒幕に立ちあがった。

だが、明治維新の現実は国学の徒の夢を裏切っていく。これについては「いま『夜明け前』を読む」を見られたい。

これまでの考察をふまえて、改めてこの「すなおな心」定義しよう。人は、いのちの不思議に出会ったときに、身をただし心をただして、深く祈る。その神の前でのすなおさ、これが「古代の人に見るようなあのすなおな心」の基本の意味である。

そして、いのちあるものとしての人は世界からものを受けとり生きる。それがはたらくということであり、その場でこそもっともいのちが響きあい輝く。人と人はことをわりあい力をあわせてはたらく。人は語らい協働することで人になる。その人と人の素直な語らいの心こそ「あのすなおな心」のもうひとつの意味である。

「すなおな心」とは神と人,人と人の間のまことのあり方そのものなのである。そして、その心こそ、地道にこつこつと新しい人生を模索している人々の心であり、経済第一から人間第一への時代をきりひらく人々の心である。こうして、半蔵があのとき見た夢は、いまこそ正夢とするときなのである。

すなおな心とは、しかし、安易なことではない。日頃の生活と仕事のなかで習慣づいている考え方ではない。それを、もう一度見直す心である。経済を第一に考えることに慣れてしまっている日常を、改めてとらえなおす心なのでもある。


AozoraGakuen
2017-05-21