いま、資本主義は最終の段階、つまり終焉期に至っている。社会主義陣営が崩壊することによって、資本主義は自己規制から解放され、資本の論理にのみしたがって動く。それが、サッチャーやレーガンの時代に顕在化した新自由主義である。
『資本主義の終焉と歴史の危機』にあるように、資本主義とは中心部が周辺部を収奪しながら拡大するシステムそのものであり、拡大・成長は資本主義の存在条件である。ところが地球は有限である。もはや現実に拡大する余地はない。したがって、拡大のシステムとしての資本主義は終焉する。日本はその先端を行っている。ゼロ金利になって二十年。ゼロ金利とは投資に対して利益を付加することができないということであり、最初に日本がその段階に達した。
実体経済活動への投資では利益が出ないので、資本主義延命策として周辺部を国内に作り、そこから収奪するしかなくなっている。しかし、この方法は、結局国内の購買力を衰退させ、行きづまる。あるいは、アメリカのように金融空間を作り出し、金融空間で周辺部から金を集める。しかしこれは必ずバブルの崩壊を招く。さらにまた、EUのように欧州帝国を作り出すことで生き延びようとするところもあるが、帝国の中の周辺部からの収奪を強めれば結局は収奪されたところにおいて危機が起こる。いずれも擬似的に拡大する場を作ろうとしてきたが、それらの方法はもはや限界に近づいている。
アメリカ、日本、EU、中国の現政府がやっているような延命策は、早晩、大きなバブルの崩壊を招く。そのとき多くの人がその犠牲になる。何とかいわゆるソフトランディングする途はないのか。それが『資本主義の終焉と歴史の危機』の問いかけである。
世界は多極化するといわれる。これ自体は不可避である。だが多極化すれば問題が解決するのではない。多極化とは、政治的には中国やインドや南アメリカ、アフリカ諸国の経済成長と政治的な力の増大であるが、それはやはり近代の範疇に属すること、資本主義の枠の内のことであり、経済の拡大を旨とする方法はそのままである。
結論ははっきりしている。地球という有限の場で永遠に経済拡大を続けることなどできない。それでも国家が介入して拡大を維持しようとすれば、今度は国家財政が破綻する。日本もまた稼ぐよりもはるかに多い借金をくりかえしている。このままでは総破産である。
客観的な事実として、またどれだけの時間がかかるかは別にして、帝国アメリカは終焉に近づきつつある。帝国は戦争によって解体する。ベトナム戦争、イラク戦争、アフガン戦争、この戦争が帝国アメリカの崩壊のはじまりであった。さらに経済戦争である。経済は不均等に展開する。政治力、軍事力を背景に基軸通貨としての優位性を最大限に用いて、新自由主義の弱肉強食・拝金主義経済を進めてきたアメリカの方法は、実はそれしかなかったのである。
しかし土台において国内産業は衰退の一途をたどり、大きな矛盾が蓄積されてきた。二〇〇八年の経済危機は矛盾の爆発の序章に過ぎない。二〇〇八年危機以降の経済危機を取り繕うため、今日までドルやその支配下にある円は無制限に刷られ続けている。これは資本の暴走である。暴走するアメリカ資本主義は再び経済破綻に陥る。遠からずドルは暴落する。
帝国アメリカは現代のローマ帝国、崩壊過程に入ったローマ帝国である。アメリカとの関係は、崩壊しつつある帝国との関係をどのようにするのかという問題である。帝国アメリカを率いてきた産軍複合体の力は今しばらく強大である。東アジアにも緊張を生みだし、日本の防衛大綱も改定させた。尖閣問題もこの産軍複合体の手の上でのことである。すべてはアメリカ産軍複合体の政治工作である。日本の政権は、民主党であれ自民党であれ米国産軍複合体の東洋における先兵となり、米軍存在の矛盾を沖縄に押しつけてきた。
二〇二〇年、白人警官による黒人市民の虐殺に対する抗議の行動は大きくアメリカを揺るがしている。新自由主義は経済問題と同時に、人と人の分断、差別と迫害を伴う。アメリカにおける人種問題が、新自由主義の中で警官による殺人にまで至り、そしてついにかつてない普遍的で一般的な、異議をもつすべての者が加わる暴動になった。
これはアメリカを変える。人類の課題としてのアメリカ問題は、アメリカ内部から、歴史の壁が突破されつつある。アメリカ内部の問題ではない。すべてのものが、いまアメリカで起こりつつあることを自覚的にとらえることが、歴史に求められている。