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互いを敬え

資本主義の価値観とは異なる、別の生きる道を模索する人々の運動が、裾野を拡げている。物質的な豊かさを求めるのではなく、人の輝きを奪い尊厳を踏みにじる、そのことへの怒りが人々を突き動かし、世を下から動かしてゆく。そういう時代がはじまっている。

経済は目的ではない。人としての尊厳ある生活、これこそ共通の目的である。人々がやむにやまれず立ちあがるのは、人としての尊厳が冒されるときである。

日本の言葉の教えることを聴こう。「たみ(民)」の語る言葉こそが本当の「こと」である。つまり「まこと(真言)」である。その根拠は「民」が働く人であり、実際に自然と交わる人であり、人間が存在する形そのものだからである。「たみ」は万葉集にも出る古い言葉であるが、 「田―人(臣)」「た―おみ」から来ているのではないかと考えられる。田で働くものをいう言葉である。

「田」とは何か。「た」は「たから(宝)」、「たかい(高い)」、「たかい(貴い)」などとともに、「たか」を共通にする。「たか」は「得難い立派な」を意味した。「田んぼ」は泥田、水田を指す。紀元前九〜十世紀の頃、タミル人が日本列島にもちこんだ技術である。稲作そのものは縄文時代から行われていた。タミル人がもちこんだのは技術としての水田耕作である。栽培された稲そのものは在来種であったかも知れない。水田でない耕作地は「はた(畑)」というが、後に「田」は乾田も意味するようになった。

「たがやす(耕す)」は、「もの」のできる「所」である「田」を「返す」ことによって、ものがなるようにすることである。「たかへす」が古形、「田を返す」から来る。作物を作るために田畑を掘り起こし、すき返して土を柔らかにする。

人の営みとは、田を耕すことによってものが成るようにすることである。人は「もの」を直接には作らない。「田」を返すことによって豊に「なる」ようにする。「耕す・人」と「所の・田」とそして「そこになる・もの」の三者の相互関係が労働、ひいては人の営みの基本的な型である。民とは「耕す人」である。それは、言葉を通した協働によってなされてきた。

それぞれの分野で、耕す人たれ。これが、日本語の内に伝えられてきた智慧の言葉である。そしてそのような人とどうし,互いを敬え。そしてこのたがいの敬いを基礎に、すべてのものの生きる権利が等しく保障される世を生みだす。それがいま歴史が求めることであり、なさねばならぬことである。



Aozora 2020-07-14