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■弥生時代はどこから? 05/07/17

朝日新聞に「縄文中期に稲作の「印」、土器にもみ圧痕 熊本大矢遺跡 」と、縄文中期の稲作を裏付ける記事が載った。縄文時代に稲作がおこなわれていたことを、決定づける資料である。

 山崎部長(福岡市教委文化財部長で考古学者)は「少なくとも縄文中期には稲作があったことが確実になった。当時、交流があったことが知られている朝鮮半島から、他の雑穀とともに一緒に流入したのだろう。木を切り倒す伐採具も同時に出土しており、焼き畑だったのではないか」と話している。水田はまだなく、いわゆる陸稲が行われていた。

 だがこの記事のなかで

 水田稲作は弥生時代に朝鮮半島から伝わった。しかし近年、縄文時代に陸稲を含む原始的な雑穀農耕が認められ始めており、農耕文化がどこまでさかのぼるかが焦点となっている。

 とある。これは正しくない。

 日本語学者・大野晋によれば,今日につづく日本語は、縄文語のうえに紀元前十世紀頃、タミール語が重なり、混成語としてはじまった。紀元前十五〜十世紀、アーリア人がカイバー峠を越えてインド大陸に進出。紀元前十世紀にはデカン高原にまで至り、それにおされたドラビダ系の人々の大移動が紀元前十世紀前に起こった。弥生時代の開始は近年の研究で紀元前十世紀にさかのぼることが実証され、大野晋による膨大な言語学的民族学的研究を裏付けている。

 タミル人が今日につづく日本語とそして水田稲作を持ちこんだのだ。これが事実である。私は、大野晋の学説を支持する。これは発見された客観的な歴史的事実であり、考古学はこの事実を基礎に書き直されなければならない。

  * 縄文人、〜B.C.1000には既に形成されていた。ここでも多くの人種が混成しているが、基層となっているのはモンゴロイド系である。

  * 弥生人、タミル人起源。B.C.1000までに、アーリア人のインド大陸進出によってドラビダ人が拡散。日本列島にも至り弥生人を形成した。

  * このうえにさらに三〜六世紀にかけて、中国大陸の動乱にあわせて中国大陸、朝鮮半島から新たな支配者、天皇家の祖先に連なる人々が日本列島に進出した。

新聞記事

縄文中期に稲作の「印」、土器にもみ圧痕 熊本大矢遺跡

2005年07月17日08時28分

写真

大矢遺跡から出土した縄文中期の土器に付いていた、稲もみ圧痕の電子顕微鏡写真

 縄文時代中期(約5000〜4000年前)の土器に、当時の稲作の存在を示す稲もみの圧痕(あっこん)(スタンプ)が付いていたことが、福岡市教委文化財部長で考古学者の山崎純男さんらの調べでわかった。熊本県本渡市の大矢遺跡から出土していたもので、全国最古の圧痕資料となる。これまでは岡山県の南溝手(みなみみぞて)遺跡などの縄文後期(約4000〜3000年前)の資料が最も古かった。考古学界で論争になっている「縄文農耕論」に大きな影響を与えそうだ。

 これまで、各地の縄文時代の地層からイネ科植物のガラス質細胞(プラントオパール)などが見つかり、縄文農耕の存在が認められるようになった。ただ、微小なプラントオパールは後世の紛れ込みも否定できず、学界では慎重論もある。

 一方、稲もみの圧痕は土器の製作時に付くため、時期を特定できる。また、稲は日本列島になかった外来種であることから、土器に付いた圧痕は稲作の有無を示す信頼性の高い資料とされている。

 山崎部長は福岡や熊本など九州各県の縄文土器を調査。そのうち、熊本県の大矢遺跡で十数年前に出土した土器群の表面を肉眼観察や電子顕微鏡で調べたところ、稲もみの圧痕が、阿高式と呼ばれる中期後半の土器に1点、続く南福寺式と呼ばれる後期初頭の土器に1点、それぞれ見つかった。また、後・晩期の10遺跡の土器から雑穀や豆類の圧痕も約30点見つかった。

 水田稲作は弥生時代に朝鮮半島から伝わった。しかし近年、縄文時代に陸稲を含む原始的な雑穀農耕が認められ始めており、農耕文化がどこまでさかのぼるかが焦点となっている。

 山崎部長は「少なくとも縄文中期には稲作があったことが確実になった。当時、交流があったことが知られている朝鮮半島から、他の雑穀とともに一緒に流入したのだろう。木を切り倒す伐採具も同時に出土しており、焼き畑だったのではないか」と話している。