この夏、『竹内好という問い』』(孫歌著、岩波書店、2005年)を読む。
孫 歌(ソン・カ)
1955年,中国吉林省長春生まれ.中国社会科学院文学研究所研究員.中国文学・日本思想研究.おもな著書に,『アジアを語ることのジレンマ――知の共同空間を求めて』(2002年,岩波書店)『求錯集』(1998年,北京・三聯書店),『亜洲意味著什麼――文化間的「日本」』(2001年,台北・巨流図書公司),『竹内好的悖論』(2005年,北京・北京大学出版社)などがある。
もっとも心に残ったのは次の一文である。
竹内好は『魯迅』の中でひとつの基本原則を提起した。それは、内部から発した否定のみが真の否定である、という命題である。
そのうえで、手元にある『竹内好評論集』全3巻(筑摩書房、1966年6月25日)を再読した。竹内好は十年以上読んでいなかった。『竹内好という問い』に促されて再読することによって、竹内の問いが、青空学園日本語科で考えてきた問いと同じ根をもつことを再確認した。
第一に、日本語世界において内部からの近代化は可能なのか。
第二に、どのような人民の運動も、内部からの近代語に依らなければ無力ではないのか。
第三に、中国の近代化は、内部からの言葉の促しを待ったがゆえに、いったんは半植民地におかれた。しかしまた、内部からの言葉によったがゆえに、中国革命はいったんは勝利した。
竹内はこの問いに立ち続けた。問いを生きたというべきである。
そして現代である。日本の多くの平和運動や反戦運動は、内分からの近代語によってはいない。言葉に蓄えられた人民の智慧を継承していない。風土とこの風土のもとで営まれ続けてきた生産や、働き人の喜怒哀感を受けとめていない。その反動が草の根保守であった。『新しい教科書』運動や今回の小泉への投票行動の土台にあるのは、根なし草革新派への反感である。
一方、竹内は中国の変質を見ることなく世を去った。中国は中国革命をどこかで裏切り変質した。これについては『十六年目の中国』に書いた。『文集』に所収。明治維新にはじまる日本革命も、辛亥革命にはじまる中国革命も、紆余曲折を経ながら、今日もつづいている。革命は永続している。
第一に、竹内好が提起し、また自ら生ききった人生態度は、内因論である。近代の政治や思想、学術において、他にないからという理由で、内部からのものでない方法に依ることを拒絶し、内部に方法がないのなら、むしろしない方がよい、という立場であった。
これではだめだいうときに、立ちつくす勇気を示した。立ちつくすことこそ、内分からの方法が生まれる源泉である。竹内好はこのことを魯迅に学んだ。
これは私が『理学とは』、『理学以前』のなかで言わんとしたことと同じである。
第二に、立ちつくす竹内好を引き継ぎ、内部からの方法を生み出すことは可能か、今この問いを考えるときである。『理学とは』、『理学以前』は消去法であり、こうであってはならない、ということの確定であった。ここに立ちつくしてきた。
竹内好もここで立ちつくした。
その先である。内部から否定しのりこえる言葉の陳述、これを課題として来た。陳述する言葉を構造日本語からくみ上げんとして、定義集を編んできた。準備ができたということはない。
第三に、ことばのおとづれを待つ。書きつづけて待つ。おとづれの場を作り、待つ。今はそれを課題にしている。
時代は、急速に深みに進んでいる。この時代の動きと、おとづれを待つことに、どのようなつながりが開けるのはわからない。内部を通ってしか、時代に係わることはできない。このこともまた、自らにいましめる。