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■天つ神すなわち弥生人? 05/10/29

 梅原猛が十月二十五日の朝日新聞『反時代的密語』で『柳田国男の二つの仮説』と題する一文を書いている。

 梅原は、柳田国男の『遠野物語』と『海上の道』を対比させ、前者が「山人」、つまりは「縄文文化」を探求しようとしていたのに、後者では「沖縄を通って渡来した」と柳田が考える弥生文化に探求が移行している。常民とは弥生人であり、柳田が常民を民俗学の主な話題としたために、縄文文化の研究が日本民俗学から抜け落ち、それが今日の民俗学衰退の原因である、ということを述べている。

 この説はまた、日本人を二千数百年前に日本に渡来した稲作民すなわち常民に限定し、日本文化研究の視野を著しく狭くて浅いものにしてしまうからである。日本は弥生時代以前、約一万牢にわたる縄文時代をもっている。私は、縄文文化は日本の基層文化であり、基層文化というべき縄文文化を明らかにすることなしには日本文化の本質が解明されないと考える。柳田は自らの手で、山人文化すなわち日本の基層文化研究の道を閉ざしてしまったのである。

 これに対して前者の仮説(自分たち里人とは違った独自の文化をもつ山人文化が基層であるとする説)は日本をみる視野を飛躍的に広げ深める甚だ生産的なものであると私は思う。弥生時代に弥生人がこの国を征服したので、北方及び南方の縄文人はアイヌの人及び 沖縄の人として存続し、本土の縄文人は天つ神すなわち弥生人に支配される国つ神になるか、あるいは山へ逃れて山人になったと考えるべきであろう。
 基層文化である縄文文化の研究にはアイヌ文化研究を欠かすことができない。柳田の神々の研究、地名や方言などの研究、沖縄の研究などは、ジョン・バチェラーなどのアイヌの宗教や民俗及びアイヌ語の研究と対照することによってよりいっそう深みを増すはず である。しかるに民俗学者は誰一人この道を行かず、柳田の変節を批判しなかった。それでは民俗学が停滞するのは当然である。

 この梅原の説は一理ある。しかし根本的に日本古代のとらえ方が正しくなく、事実に反しているがゆえに、これは空言に終わらざるを得ない。

第一に、弥生時代の始まりを、「二千数百年前」としている。これは今日すでに「三千年前」に訂正されている。

民族学博物館の「弥生時代の開始年代について」に詳しい。

つまり、

 * 縄文人、〜B.C.1000には既に形成されていた。ここでも多くの人種が混成しているが、基層となっているのはモンゴロイド系である。

 * 弥生人、タミル人起源。B.C.1000までに、アーリア人のインド大陸進出によってドラビダ人が拡散。日本列島にも至り弥生人を形成した。

 * このうえにさらに三〜六世紀にかけて、中国大陸の動乱にあわせて中国大陸、朝鮮半島から新たな支配者、天皇家の祖先に連なる人々が日本列島に進出した。

第二に、「山人」を縄文人、あるいはその後裔としている。しかし、千年にわたり縄文人と弥生人は共存競合の関係にあった。その上に新たな支配層が三〜六世紀に渡来した。そこでその支配にまつろわなかったものの後裔が「山人」である。これは縄文系、弥生系のいずれでもあり得る。

第三に、「弥生時代に弥生人がこの国を征服した」というが、弥生人の渡来から「この国の征服」つまり統一王朝の出現した五世紀までに千五百年の時間が経過している。奈良時代から今日まで以上の時間である。「この国を征服した」のは「三〜六世紀に渡来した」新たな大陸系の人々であり、弥生人ではない。

 「弥生時代はどこから」を参照してほしい。