丸谷才一氏が十一月一日の朝日新聞『反時代的密語』で『モノノアハレ』と題する一文を書いている。
「もの」を大野晋の説によってタミル語から解析し、さらに問題提起をしている。
モノノアハレは、従って、モノ(必然的な掟、宿命、道理)のせいでの情趣、哀感をいう。四季の移り変わりはどんなことがあっても改まることのない必然で、そのことが心をゆすぶる。男と女はどれほど愛しあっていても、いつかはかならず、生別か死別かはともかく別れなければならぬ。その切なさもモノノアハレ。
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男女の仲と季節の移り変わりの哀感を最もよく描いてみせたなは言うまでもなく『源氏物語』であった。
あの物語の文体は情感にみちていてしかも論理的である。主題がモノノアハレであると同時に、文章の書き方自体がアハレとモノの双方をよく押える筆法で、情理を尽している。それゆえにこそ日本人を魅惑してきたし、今は翻訳によって全世界的に親しまれている。しかしこの情緒的な表現という面では現代日本人もずいぶん長けているが、論理性のほうはどうだろうか。かなり問題がありそうな気がする。われわれの散文は、モノとアハレの双方をよく表現できるように成熟しなければならない。
だが、日本語が論理的になるとはどのようなことを言うのだろうか。論理とは「ことわり」である。あるいは「ことわり」を「のべる」ことばの仕組み、ということでもある。これを明確に取り出す。そのための準備が『構造日本語定義集』の意図であった。
「論理学」は西洋語の「ことわりを述べることばの構造」を記述したものだ。論理ということばすら、日本語のうちからのものではない。その試行錯誤といろいろな試みがこれまでの青空学園そのものだった。数年を費やした。
しかしまだ、「ことわりを述べることばの構造」を明確に取り出すことはいまだにできていない。世界をどのようにつかむのか、について書くべきことの成熟があってはじめてその作業のうちで、ことばを構造に合致させながら、取り出すことができる。そのように考え今日まで来ている。しかし、書くべきことの成熟を待つ余裕はあるのか。それはわからぬ。いま一歩踏み出すべきときかも知れぬ。