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■映画『靖国』 08/07/17

北原 映画『靖国』を見ました。国会議員による事前検閲ともいうべき介入やそれに触発された妨害などで、いくつかの映画館は上映を取りやめたのですが、騒動でかえって映画が注目され、上映した映画館はいつも盛況で、結果的に多くの人が見ることになりました。

南海 私も見ました。寡黙な刀匠の制作現場の映像と小泉首相が靖国神社に参拝した2005年8月の靖国神社周辺の記録、合祀に反対する人びとの行動と真宗僧侶の聞きとり、そしてかつての戦争の映像や写真、それらが織りあわされて一つの映画になっています。

  この映画を見た右翼人士の中には、「われわれの主張も取り入れられている」とか「そんなに反日とはいえないのではないか」という感想を持った人も多かったようです。確かに映像の多くは、軍服を着た軍国主義者や右翼の靖国参拝のものです。また右翼民族派や軍国主義者の主張もそのままです。

  黙々と作られる靖国刀は一方で靖国神社の御神体(の分身というべきか)であり、その刀がそのまま日本軍兵の刀として侵略の地での殺戮に用いられる。刀が戦場の武器であったのは西南戦争あたりまでであって、近代戦において靖国刀は実際の戦闘の場での武器ではありません。捕虜の虐殺などで用いられるのであり、日本の支配を象徴する道具です。その靖国刀が、同時に国家が戦死者を祀る神社の神体である。つまり近代日本国の本質が侵略そのものであったこと、そして靖国神社に参拝する小泉首相の姿をとおして、それが今日に至るも総括されていないことを、あからさまな事実としてえがいています。

北原 近代国家の本質が侵略であったというのは、何も日本にかぎることではありません。スペインもオランダも、そしてイギリスもフランスもおしなべて近代国民国家は、対外的には侵略国家、植民地支配を拡大しようとする国家でした。かつては奴隷貿易さえ行われた。

南海 日本国は強制連行をやった。物質資源の植民地支配と労働力の強制的刈り集め、ここに近代国民国家の本質があるのですね。その意味では日本近代も同じだった。

  しかし日本は遅れてきた帝国主義として、大きな焦りと無理を重ねていた。無理を承知で強行的に帝国主義を推進するために侵略そのものを神格化することが必要だったのです。

北原 そういえると思います。もちろん西洋の十字軍のように侵略を神格化した先例はあるのですが。近代国民国家でありながら、植民地支配の正当化に八紘一宇のような『日本書紀』に源をもつ言葉を用い、近代の超克を重ねながら国民を動員していった。その要にあったのが靖国神社です。

  映画は日本の草の根の右翼民族主義を客観的にとらえています。客観的にとらえているがゆえに、右翼人士から「われわれの主張も取り入れられている」とう意見が出るのですが、じつは冷静な視線からの客観視によって右翼の滑稽さを明らかにし、そのことによってその存在を解体しています。戦争というものがいかに人間を変え残虐にするか、いかに現代の日本人がそのことに気づいていないか、それを事実をとおして明らかにするものです。

  階級対立と闘争は普遍的なことです。その具体的方法は個別的です。近代国家では、戦争による死は国家が管理し、個人や家族に任せることはしません。それは近代国民国家の原則です。靖国神社はそのための基本的な装置です。近代における階級支配の方法であるという点で普遍性をもっています。しかしその具体的方法は、アメリカ合衆国アーリントンの国立墓地など西洋の戦争墓地に比べ、神として祀る(キリスト教では神のもとの人間として祀る)という点で固有性の深い方法です。

南海 アメリカの近代国家としての戦争は独立戦争に始まります。フランスは近代国家の闘いの始まりが革命にあります。日本国の戦争墓地は独立や革命に起源をもたないから、神がかり的なものになるのでしょうか。

北原 明治維新はまぎれもない革命です。が、明治新政府はこれを革命とはいわず維新といい、革命であることの誇りをすてました。西郷隆盛はこれに対して闘いをいどみ西南戦争を起こして敗れました。西郷は靖国に祀られていません。明治政府の反動化と国家神道と靖国神社の整備が一体であったところに、靖国個別の性格を規定する要因があると思います。

  靖国をとおした階級支配は外に向くだけのものではなく、第一義的には国家の階級支配そのものとして内に向かうものです。日本という国は一貫して武による支配の国家でした。小泉の靖国参拝は、自由主義の時代にあわせて靖国の意味を再編しようとするものでした。規制緩和や自己責任論で国家の責任を放棄し、剥き出しの資本主義に搾取の自由を与えながら、一方で靖国で若者を国につなぎ止めようとしたのです。その後、参院選で自民党が大敗したことにより、この方法の追求を彼らは中断しました。

  しかしまた靖国は時代に合わせて再編されて来るでしょう。それはながく深い根をもっています。これに対するには、それ以上に根と力のある変革思想でなければ歯が立たない。しかし、いかに靖国が日本の固有性に根ざした階級支配の装置であっても、それは必ず見ぬかれ暴露される。新自由主義という資本主義が最後の段階に立ち至っているなかで、今回の騒動のように暴露するものへの懐柔と弾圧もまた不可避であるが、逆にそれによって、私たちの階級思想もまた鍛えられる。映画『靖国』を見て、改めてわれわれが課題としていることの深さを考えさせられました。