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■日本語の行く末 08/11/11

  『日本語が亡びるとき』(水村美苗著、筑摩書房)が出版されたことを契機として、日本語の行く末についての議論が盛んである。それ自体は大変いいことなのである。また事実として日本語の知的蓄積が最近は余りに乏しく、普遍語である英語圏の蓄積との間に大きな格差でできているのも事実である。

  しかし、ことは国家と文明のありように関わることであり、さらに言えば、日本語で考える覚悟である。普遍語英語に埋もれてしまった日本語という流れであるが、それは外因論である。

  日本語はことわりの言葉を掘りさげることなく、何もかもそのままに受け入れるところがある。これは三千年以上の歴史性のあることであり、一日ではいかんともしがたい。しかし、日本語がこれからも人間の言葉であろうとすれば、今というときに、ことわりの言葉を深めることが、意識的になされなければならない。

  一、英語の普遍性はこの半世紀の帝国アメリカの力を背景にしたものであり、帝国が没落しつつある今、この状況はふたたび流動化する。この方向を見失ってはならない。もちろんアメリカの「繁栄」をもたらした文化的な力はまだ失われてはいない。英語の覇権もまだ当面は続く。しかし、方向は明確である。

  二、情報技術の発展による電網空間の広がりは、共通の伝達手段としての言葉を必要とする。そのため、帝国に力と相まって、英語のの「普遍化」が起こった。だが電脳空間における英語の圧倒という問題は、その内容を見なければならない。帝国を支えた文明の方法に関わる技術、科学、政治、経済云々の方法に関する分野でのことごとである。方法論は強い。またそれは学ばなければならない。しかしまたそこまでである。帝国没落の後に歴史が求めることを固有の言葉で準備しなければならない。

  三、母語を離れて人間は考えることができない、この事実に立ちかえる。これからの時代は帝国が没落する途方もない混乱期である。この時代をいかに生きぬくか、このとき母語で考えぬくことができるか、これが問題である。

  日本語圏の人間は、人間にとって最も大切なことの一つを失ったまま日々を送っている。フランス語圏の言葉に我にかえる。

  2005年に亡くなったフランスの哲学者であるジャック・デリダは次のように語る。『生きることを学ぶ、終に』(鵜飼哲訳、2005、みすず書房)

  日本語圏でデリダがどのような意味をもつのかとか、日本でどのようにデリダが受容されたのかとかいう問題以前に、「数世紀」と「何ものかに対する情熱」のもつ意味に圧倒されねばならない。日本語圏におけるその不在に気づかねばならない。「日本語が数世紀このかた体内化した何ものか」はあるのか。それに対する情熱はあるのか。この問題をぬきにしてデリダを論じても、あるいはデリダに依拠して発言しても、それは日本語の言説として無意味である。

  日本語は深い断絶を経験した。いや経験とはそれを自覚したものがいうことだ。断絶は事実として存在しながら、一般的に自覚されることはない。そのゆえにこれは単なる体験というべきなのだ。そのなかで夏目漱石はこれを経験とした希有な一人だ。

  この断絶からはじめても、いまだ数世紀どころかほんの一世紀と少しのあいだの時間しかたっていない。言葉にとってはこれはあまりに短い時間だ。日本語がこのような言葉であるとき、語られる言葉の多くは宙を舞うだけであって人を動かさないし、生かさない。このことの重大さ、文化とそのもとで生きる人間にとっての意味をおさえない言説は空しい。

  『日本語が亡びるとき』の水村氏は「日本語が、『普遍語』の役割を果たしうる『国語』であることをやめ『現地語』になってしまう」という危機意識を述べる。しかしそれはやはり外因論である。現地語であれ何であれ「現代日本語は人間の言葉たり得ているのか」という問いに立ち尽くすことが求められている。何もないときに立ちつくす強さがいま必要なのだ。

  日本語が直面する問題は言語学の問題ではない。問題を考えるものが英語を使いこなす日本語圏の人間かどうかの問題でもない。「日本語のみを読み日本語のみで語る、他のものには触れないし読まない人間の知性は衰退する」という命題は正しいか。正しくない。日本語のみを読み日本語のみで語る人間が、人間を知り、世界を見て、考え行動することは可能である。幕末の人々を見よ。

  つまり問題は本当は言葉の問題ではないのかも知れない。現代日本の政治制度や社会組織が疲弊し、そのもとで「人間」が衰退しているのではないか。そういう問題かも知れない。

  このことを銘記しつつ思索をつづけたい。