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■マレーシアの経験 09/07/14

英語で教えるのは限界…マレーシア 理数学力まで崩壊」との記事に出会った。

 これに対し、マレー系の学者や教師らは、政府方針は教育の質の低下だけでなく、専門用語のマレー語への移植を妨げ、マレー語を傍流に追いやると主張。今年3月7日には、クアラルンプールで著名作家や教師ら2000人以上が英語での授業の廃止を求めてデモ行進し、警官隊が催涙弾を撃ち込む騒ぎとなり、当時のアブドラ・バダウィ首相は混乱拡大を防ぐため、早期に政策を見直す考えを示していた。

 ただ、今回の政府の方針には、都市部の住民らを中心に反対論も出ている。与党の若手議員からは、小学校での英語による授業は止めても中学では従来通り行うか、選択制の導入を求める意見も出ている。これに対し、政府は英語教育そのものは充実させるとして、英語教師を1万4000人増やしたり、小学校で英文学の授業を取り入れる方針を説明、理解を求めている。

 一方、マハティール氏は自分のブログで「政府の決定には失望した」としており、今後も政府に決定の見直しを求めていく考えだ。 (シンガポール 宮野弘之/SANKEI EXPRESS

これは他山の石である。この制度を導入するとき、当時のマハティール首相は「科学や数学はマレーシアが起源ではない。専門用語はマレー語にはなく、英語から移植するしかない。それなら最初から英語で学ぶほうがよい」といったと書かれている。しかしこの考えは、科学分野の単語の移植と、考える言葉そのものを英語にしようということの本質的な違いを理解していない。また単語を「移植」することの重要さも理解していない。個々の単語もまた全体のなかに位置づけられるように、訳し直さなければならない。

このマレーシアの経験は、東洋諸国にとって人ごとではない。十分その経験に学ばなければならない。日本でも小学校で英語教育とか、授業を英語でするとかやろうとしているが、文部官僚の浅はかな発想である。人間はいかに外国語を勉強しても母語で考えられるところまでしか考えることはできない。まず母語である日本語の力をつけなければ、想像力や批判力、そして説得力などは育たない。

私はかつて、日本語のわからない在日一世の朝鮮人のお祖母さんに主に育てられた在日三世の生徒を担任したことがあるが、日本語も朝鮮語もそれぞれ中途半端になり、考える力がはじめ弱かった。高校三年間を通して力をつけたが、その間のその生徒の苦労を知っている。母語がしっかり身につかないと、それを取りかえす苦労は大変なのだ。最近の高校生は、また違う社会的な原因があるように思われるが、数学はよくできるのに日本語がだめという生徒が増えてきた。こんな状況下で英語の授業なんかをすると、結果はやる前から見えている。

非西洋語の社会で大学教育を母語でやっているのは日本くらいなものではないか。医学書が翻訳されているのも日本語くらいではないか。『解体新書』以来の長い伝統である.益川先生のように日本語で考えてノーベル賞までいくというのも、大学教育を日本語でやってきたからだ。これは江戸期から明治時代に外国の文物の言葉を日本語に移植した先人の苦労のたまものだ。この苦労は引き継がなければならない。もちろん明治期に急いで移植して今もってこなれていない言葉はたくさんある。それはこれからの課題なのだが、とにかく母語ですべてやろうという意気込みは受け継がなければならない。

ところが最近知ったのだが、「スーパーサイエンスハイスクール」というのがあるそうだ。文部科学省が科学技術や理科・数学教育を重点的に行う高校を指定する制度のことである。SSHと略記される。平成14年度に構造改革特別要求として約7億円の予算が配分され、開始された。またここでも文部官僚の浅知恵である。一体これは何をする学校なのだろう。まったくわからない。「スーパーサイエンス」とはどんな科学をいうのだろう。科学を超えた超科学? それとも最先端科学? それを高校でするのか。高校で学ぶべきは科学の基礎だ。それなら「基礎科学高校」というべきだが、別にそういう高校を置く意味がわからない。それにしても和語でなくとも少なくとも漢字で表そうとしてきた明治先人の苦労をなんと思っているのだろう。高校からの批判もあるようだ。

構造改革というのは要するに小泉改革で、雇用制度を破壊し農村を疲弊させた(その他にもたくさんあるが)例の悪政である。そのなかで学校教育もずいぶん疲弊した。小泉首相は靖国神社の参拝などをくりかえし民族派の顔をしてきたが、やったことは教育や農業、地方の疲弊であり、国民の金融資産の切り売りである。さて、衆議院選挙である。日本でもマレーシアでも、新自由主義(=日本では小泉改革)の見直しがすすんでいくのだ。今はそういう段階であり、これは自民党や公明党の小手先の手練手管ではどうにもならない。問題はこの変革期を担う力が民主党の側にどれだけあるかである。皆さんも、このあたりを大きく見て、これから秋に向けての一連の動きを自分の将来の問題として考えていってほしい。