玄関>転換期の論考

■ カルカソンヌ 09/07/25

 昨日、今回の旅の目的の一つ、カルカソンヌを訪れてきた。学生時代に一度カタリ派の里にいってみたいと思ってから37年目の訪問だった。どうしてカルカソンヌに行きたかったのか、記しておこう。
 世界史を学んだ人は十二世紀フランスの「アルビジョワ十字軍」を聞いたことがあるだろうか。そのとき、「同じフランスで十字軍とはどういうことだろう」とか「その十字軍に亡ぼされたカタリ派とは何だろう」と思ったことはないだろうか。
 学生の頃京都北白川の下宿で、1909年2月3日 パリに生まれ、 1943年8月24日 ロンドンに死んだフランスの哲学者・シモーヌ・ヴェイユの諸著作をとおして、かつて南フランスには地中海文明というべき文明が栄えていたが、十二〜十三世紀にパリを中心とする北方フランスによって滅亡させられたこと、ファシズム支配下のフランスで、両親とともにマルセイユに滞在した時代のシモーヌ・ヴェイユがこの文明を深い共感をもって研究していたことを知った。
 それは、地中海の人と文明の行き交うなかに花開いた都市文明であった。言葉はオック語。フランス語とは系統の異なる言葉であり、この地方はラングドック(オク語)と言われる。この文明の柱となったのは、カタリ派の教えであった。カタリ派とは、十一〜十三世紀、南フランスを中心に信仰を集めたキリスト教の一宗派といわれているが、マニ教の二元論に近く必ずしもキリスト教の枠には入らない。
 マニ教とは、三世紀にマニ(215頃〜276頃)がイランにおいて始めた宗教。ペルシア固有のゾロアスター教的二元論に、グノーシス主義・仏教を加えた混合宗教。四世紀には、ローマ・北アフリカの都市知識層に迎えられ、六、七世紀にはチベットから中国にまで達した。
 グノーシスとはギリシア語で知識の意。特に古代ギリシアの末期では、神秘的、直観的にとらえられた神の霊性の認識をいう。グノーシス主義とは、紀元一世紀から二世紀のギリシア文化圏における霊肉二元論。キリスト教にも及び、神を創造神(物的)と父なる主(霊的)に分け、キリストの肉体を仮の姿とし(仮現説)、もっぱら霊的救済を説いた。
 カタリ派の人々は非暴力、菜食、禁欲を守り、生きるために労働し、そして布教を行った。難しい言葉で教えを説くのではなく、村の中で、土地の言葉で神について語るカタリ派に人々は親近感を持ち、瞬く間に広がって行った。カタリ派(アルビジョワ派)のカタリ(cathari)とは、「清められた者たち」という意味であり、「神と人の仲立ちをする聖職者なるものを一切認めず、人はすべて直接に神に相対すべきもの」としていた。
 これはまた世俗教会に抵抗し続けたシモーヌ・ヴェイユの思想でもあった。シモーヌ・ヴェイユは、この世界の悪に落ちこむ重力の場で、それにあらがい真空を保てば、その真空を通過して神の世界に出会い融合できるということを自身の人生を通して示した。これはカタリ派の二元論に近いものであった。この思想は思索の言葉を集めた『重力と恩寵』に述べられている。
 北方フランスの領土拡大欲をもつ封建領主と、カタリ派の拡大に危機感を抱いたカトリックは利害が一致し、「アルビジョワ十字軍」を派兵する。これが1181年、1209年、1226年と三次にわたって行われたアルビジョワ十字軍である。トゥールーズ伯、カルカッソンヌ伯など、ラングドック地方の領主たちは、自身はカタリ派ではなかったが、北方領主の領土拡大に抵抗、領民と力をあわせて徹底的に抗戦した。結果はラングドック側の惨敗に終わった。100万人もの人が殺され、カタリ派を擁護する領主は領土を没収、追放された。
 十字軍が苦戦したのは、強固な城壁を持つカルカッソンヌだった。城はベジエ・カルカッソンヌ伯、トランカヴェル家の居城で、同家が君臨していた1084年から、1209年までがカルカッソンヌの全盛期であった。そこでアルビジョワ十字軍は「和平交渉をしたい」と称して、カルカッソンヌ伯レイモン・ロジェを城外に呼び出して捕らえた。指導者を失ったカルカッソンヌは、以後15日で陥落。レイモン・ロジェは自分の城の石牢に幽閉され、三ヶ月後に二十四歳で死んだ。
 それでもカタリ派は絶滅にはいたらず、ローマ法王の指示で、ドミニコ会による宗教裁判が行われ、容赦なく火刑。その後カタリ派の勢力は衰え、1321年に最後の信者が火刑となりカタリ派は絶滅した。
 しかしその言葉であるオク語は亡びなかった。フランス革命が勃発すると、ラングドックの人たちもこれに参加、オック語を公用語とする自治区の形成が試みられた。しかしジャコバン派の反発で頓挫してしまう。革命が潰えてもオック語復権の機運は消えなかった。高まる運動が分離主義に繋がる事を危惧したフランス政府は1881年にオック語の学校教育を法律で禁止した。革命を経て成立した近代フランスは、フランス語で国民国家を形成しようとする指向性を強くもつ。
 だから、オック語はフランス語の方言とされている。しかし事実はフランス語とは異なる系統の言葉であり、近代のフランス語同化政策に抗して今も600万人の話者をもつ。オック語の文学者フレデリック・ミストラルによるノーベル文学賞の獲得はオック話者を大いに勇気づけた。
 冷戦終結後の欧州では欧州共同体が地方言語の保護を加盟各国に促すなど、見直しが進められつつある。しかし欧州共同体の中核を成すフランス政府は依然として地方言語を方言として位置づけ独自性を認めない。1999年にはシラク大統領が言語保護の条約にサインを拒否している。2008年6月21日にはフランス上院が地方言語の保護を求める条例を否決して、南部で大きなデモ活動が行われた。マスメディアの浸透もあってオック語は窮地に立たされており、オック語話者の高齢化も指摘され、これから如何にしてオック語を若い世代に継承するかが重要なテーマとなりつつある。
 このようなことを一度現地の風光のなかで反復したいと思っていた。モンペリエからカルカソンヌへの列車では途中、かつて繁栄したセートの街を通り過ぎるときに地中海が見える。空気は乾き気温は高いが木陰は涼しいくらいである。カタリ派はこのような乾いた空気のなかに開いた宗教だったのだ。これは忘れないようにしたい。カルカソンヌはマルセイユ時代のシモーヌ・ヴェイユも何度か訪れていた街だ。
 現在のカルカソンヌは観光の街である。バカンスの季節である。多くのフランス人がカルカソンヌを訪れていた。カルカソンヌのあるオード県はこの地を「カタリの里」として位置づけている。この地の人の心のなかには今も生きているのだ。フランスのもう一つの面を教えてくれる。
 写真はカルカソンヌ城遠望、城内からラングドックの大地を見る。そして城の一部。ここにもう一つのフランスがある。