「私の政治哲学」 鳩山由紀夫 を読む。このように一党の党首が自らの政治哲学を語ることはよいことだ。私は党としての民主党を支持するわけでもないし、その政治路線の全体に賛同するわけでもない。しかし哲学を語りそこから政治の方向を議論していこうとすること自体は、まったく賛成である。戦後の日本政治はあまりにも議論ということなしに進められてきた。自民党の派閥はムラといわれた。ムラの中ではあうんの呼吸で分かりあえるというわけである。しかしもはやこれではやっていけなくなった。議論する、対話する、そして行動する、このことが当然のこととして根づくことを期待している。一読した意見を書いておきたい。
鳩山哲学の基本は「友愛」であり、彼はこれを祖父鳩山一郎から受け継いだ。鳩山一郎は1955年、台頭する社会主義勢力に対抗するため保守合同を進めた。保守合同の前は、アメリカとの同盟重視の吉田茂に対し、自主独立の立場であった。鳩山一郎は「友愛」をカレルギーの著書『全体主義国家対人間』の訳のなかから得ている。さらにその言葉の源をたどればフランス革命の精神「自由・平等・博愛」の博愛(fraternité)であるという。これは本来兄弟愛や同胞愛を言う言葉である。この思想の流れにおいて「友愛」は、共産主義に反対しつつ資本主義の放縦にも歯止めを掛ける概念として機能している。「友愛が伴わなければ、自由は無政府状態の混乱を招き、平等は暴政を招く」というわけである。この「友愛」の思想はさらに「人間は目的であって手段ではない。国家は手段であって目的ではない」と展開された。そして、鳩山民主党の立党宣言の中の「『個の自立』の原理と同時に、そのようなお互いの自立性と異質性をお互いに尊重しあったうえで、なおかつ共感しあい一致点を求めて協働するという『他との共生』の原理を重視したい。そのような自立と共生の原理は、日本社会の中での人間と人間の関係だけでなく、日本と世界の関係、人間と自然の関係にも同じように貫かれなくてはならない」に結びつく。「共生」はいま流行の言葉だがその内容は一様でない。
鳩山論文はこの十数年の日本政治について「冷戦後の日本は、アメリカ発のグローバリズムという名の市場原理主義に翻弄されつづけた」と言う。そして民主党は小泉の政治路線とはまったく違うという。しかしではなぜ市場原理主義に翻弄されたのか、そこには資本主義の必然性があるのではないか。日本の内部に市場原理主義を受け入れる素地があったのではないか。「アメリカ発のグローバリズム」と外に要因を求めても、小泉選挙で自民党を大勝させたのは日本の有権者自身ではなかったか、という問に答えたことにはならない。政権を担う政党として、新自由主義をはびこらせた根っこのところについてさらにつっこんだ分析をし、いっときそれを受け入れた一人一人の国民の心にひびく呼びかけができねばならない。そして、今の時代に「市場原理主義に翻弄」されないでやっていけるのか、その道筋はあるのか、小手先ではない大きな見通しを示さなければならない。それは書かれていない。
鳩山論文は「ドル基軸通貨体制の永続性への懸念」を表明し、「世界はアメリカ一極支配の時代から多極化の時代に向かうだろう」と書く。「日米安保体制は、今後も日本外交の基軸」と言いつつ「友愛が導くもう一つの国家目標は東アジア共同体の創造」と述べ、「地域的な通貨統合、アジア共通通貨の実現を目標としておくべき」と書いている。このこと自体は必然的にそうならざるを得ないものとして反対ではない。
しかし二つの問題がある。大きくはその実現には「東アジア共同体」について東アジア各国に呼びかけるの理念と見通しを提示しなければならない。そのためには近代日本のあり方にまでさかのぼる総括が必要で、これなしに説得力はない。さらにそのような世界のブロック化をこえ、地球という共同体が可能である理念までも提示しなければならない。世界的な信用体系の再構築を誰がするのか。まともな情報機関もない日本国にそれが可能かという現実まで見据えて、何が発信できるのかを考えなければならない。
もう一つは、日本を取り巻く情勢ははるかに緊迫しているということだ。この秋ドルが暴落する可能性が高い。最近株価や企業の景気観が上向いているとかが流される。しかしそれは作為のはいったものであり、一時麻薬でごまかしているだけである。基本的な事実として、アメリカはこの間、実体の裏付けを欠いたままドルを印刷し続けた。アメリカの幾人かの経済専門家もこの秋のドル崩壊を予測している。いずれこれは不可避なのである。いる暴落するかは偶然の要素が入る。しかしいずれ暴落することは必然なのである。日本は膨大なアメリカ国債をもったままである。そのときこれが紙切れになる。国民の金融資産が霧散する。民主党政権の誕生を待っていたかのように、新たな経済危機が起こることもありうる。今の民主党にこれに対する備えがあるのか。大きな理念と目前の危機、この二つに言及がない。
さらに政治家の政治哲学には、世界観とともに実践論がなければならない。どのように政策を実行していくのか、そこには基本的な人間社会のつかみ方がなければならない。鳩山論文にはそれが足りない。現実に政権を担う民主党を襲うのは、インフル大流行、新たな段階の経済危機、自然災害、人間の生存の危機、である。このなかでどこまで民主党が鍛えられるのか、あるいはまた解体するのかである。鳩山論文の英語版が二七日付の米ニューヨーク・タイムズ紙(電子版)に寄稿された。これをめぐりさっそくアメリカでは批判があがっている。 このような批判は予測の範囲内ではあろうが、どこまで信念を貫けるか。あるいは貫くべき信念があるか、民主党が問われるのはすべてこれからである。