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■小沢幹事長不起訴を読む 10/02/02

小沢幹事長の不起訴が決まり、そのことをめぐって新聞にもいろいろなことが書かれている。おしなべてどの記事も今回の問題を政治と金の問題としてとらえている。しかし問題の本質はそんなところにはない。

これまでも書いてきたように、世界の大勢はアメリカや欧州の力の相対的な低下と多極化であり、国内的には、儲け第一の経済拡大より人間の生活を、多極化する世界のなかで日本はアメリカ一辺倒からの脱却を、という歴史の方向性である。

日本はこれまで先進七カ国、いわゆるG7の一員としてやってきた。「先進」というがそれはアジアやアフリカ諸国から富を奪い、それによって繁栄してきたに過ぎない。しかし、アメリカがイラクとアフガンで泥沼に陥り、その戦費負担の重荷に耐えきれず、一昨年の秋についに経済危機にまで至った。ローマ帝国が崩壊していく過程とまったく同じである。これまで収奪される一方であった中国やインドが経済力をつけ、南米では明確な反米政権が民衆の支持を集め、ブラジルもまた経済的発展を続けている。それに見合った政治機構が求められ、G7はG20になり世界は多極化していく。これは不可避な変化である。

このように経済的な土台が大きく変わっていくときには、その変化の方向をさらにおし進めようとする政治潮流と、これまでのやり方を続けようとする政治潮流が対立し、ぶつかりあう。一昨年来の日本政治では民主党が前者であり、自民党や官僚機構が後者であった。

では検察どちらなのか。とりわけ今回の小沢問題を担当した特別捜査部(特捜)とは何か。1月14日の夕刊紙に次のような記事が出ていた。

これはまったくその通りなのである。昨年春の小沢民主党代表(当時)の秘書逮捕問題以来、検察は一貫して、民主党政権の誕生阻止(昨春)から今夏の参院選での民主党過半数阻止(今回)まで、明確な政治意志をもって行動してきた。二つの対立する政治潮流の一方の側の暴力装置として機能してきたのだ。

問題はなぜ小沢氏は起訴されなかったのか、ということである。嫌疑不十分とかいうが、その気になれば起訴する。起訴し議員辞職に追い込んで参院選で民主党の勝利を阻止できれば、その後公判が維持できなくてもかまわない、そのような判断も検察にはあっただろう。

だがそれはできなかった。それはなぜか。検察の背後にいるアメリカ自身、方向が一致していない。アメリカ内部でも多極化に適応してこれまでのやり方を変えていこうとする勢力と、従来のアメリカ・イギリスによる世界支配を維持していこうという勢力とがぶつかり合っている。2月2日、キャンベル米国務次官補(東アジア・太平洋担当)は韓国訪問の前に国会内に小沢幹事長を表敬訪問し会談している。アメリカ側の意思表示である。小沢氏に訪米要請を出して様子を見ようということであったようだ。キャンベルが表敬訪問するという日程が決まった時点で小沢逮捕はなくなっていた。この一年小沢つぶしで走ってきた検察特捜部ははしごをはずされたようなものである。親分アメリカがそういうことなら起訴はできない。かくして一件落着となったのである。

日本の検察機構は、1910年の大逆事件、1928年3月15日、1929年4月17日の二回にわたる共産党弾圧、特高による数々の弾圧、昨日名誉回復がなされた横浜事件もそうである。戦後も三鷹事件、松川事件、造船疑獄、近年のいくつかの国策捜査と、ときの権力の暴力機構そのものであった。これらはいずれも、日本資本主義が次の段階をめざそうとするとき、それを妨げるものを排除する目的でなされてきた。ここでは論証はできないがすべてそうである。しかし、このような資本主義と権力の暴力装置のあり方自体も、もはやこれまでのようにはいかないところに来ているように思われる。