<一>
現代はどのような時代か。
『ポストモダンの共産主義』(ちくま新書)を読む。著者はスラヴォイ・ジジェク。1949年生まれ。同世代であり、1968年の時代のなかで考えはじめた人である。旧ユーゴスラビア連邦・スロベニア出身の思想家、哲学者にして精神分析家である。副題が「―はじめは悲劇として、二度目は笑劇として」である。これは歴史に登場した共産主義のことをいっているのかと思うが、違う。「はじめ」は9・11ツインタワー崩壊のあの事件。二度目は二年前のリーマンショック。新自由主義のアメリカで起こった二つの事件をいっている。これだけでも、ずいぶん人を驚かすような書きぶりであることがわかる。
モダンとは、近代である。日本で近代と言えば明治以降を言うが、本来モダンとは、1492年頃のコロンブスらの航海とスペイン・ポルトガルによる「世界分割」、そして1453年に東ローマ帝国がオスマントルコに滅ぼされ、東方の知識人がイタリアに移動、ルネサンスがはじまったとき以来の五〇〇年間の資本主義経済を土台とする欧米中心の世界をいう。資本主義の経済拡大を基礎にこの文明は展開されてきた。「ポストモダン」はこの意味で「後・近代」である。
スラヴォイ・ジジェクはこの行き詰まりをこえる智慧を共産主義に見出そうとする。資本主義とは絶えず拡大することが本質であるのならば、それは永遠ではありえない。資本主義をこえる視点を共産主義に求める。
『死に至る地球経済』(浜矩子著、岩波ブックレット)を読む。2008年9月のいわゆるリーマン・ショックから2年、問題は何も解決していない。それどころか、ギリシアに見られる国家財政破綻の危機、アメリカ経済不況、日本や欧州の出口なき閉塞はますます深くなる。その一方で経済成長を続ける資本主義中国。それらの相互関係を地球経済の構造という視点で解明しようとする。
結論ははっきりしている。地球という有限の場で永遠に経済拡大を続けることなどできない。それを無理して国家が介入して拡大を維持しようとすれば、今度は国家財政が破綻する。日本もまた稼ぐよりも多い借金をくりかえしている。経済拡大によらない地球生活の維持と再生産の仕組みは可能なのか。「悲惨な結末を回避したければ、思い切って耐え難きを耐え、不可能を可能にする」。その叡智が今求められていると著者は言う。
多極化は不可避である。だが多極化すれば問題が解決するのではない。多極化とは、中国やインドや南アメリカ、アフリカ等の経済成長と政治的な力の増大であるが、そのれはまさに近代の範疇に属することである。モダンの枠の内のことである。
それに対して、ジジェクも浜矩子も、後・近代を問うている。いずれの本も、リーマン・ショックの本質をこの五〇〇年来の近代世界の行き詰まりとしてとらえている。そして浜矩子は説得的にその智慧を生みだす叡智が求められていることを説く。だがしかしいずれも開かれたままの問題提起であることはかわらない。
モダンの行き着く先が二十世紀アメリカであり、アメリカ帝国主義は現代のローマ帝国であった。しかし今日、その衰退はより現実のものになる段階にある。アメリカであるが、ファシズムに向かっているように見える。経済的にも追い詰められた草の根のところで、かつてのアメリカの栄光が忘れられない層がファシズムの土台である。茶会運動がそれである。その中からコーランを燃やそうという愚かな動きも出てくる。
日本や欧州はファシズムを経験した。アメリカはまだない。マッカーシズムはその端緒であったが、あの当時のアメリカは上り調子であり、ファシズムとして広がることはなかった。今はちがう。もちろん良心ある人も多く、日本軍国主義のように大政翼賛一色になるのではなく、アメリカを二分することになるのではないか。この米国ファシズムとの対決は、人類が避けて通れない道であるようにも思われる。
第一、 資本主義が拡大なしにありえないのなら、有限な地球の上で早晩衰退する。
第二、 経済は人間にとって方法であり手段である。金儲けは目的ではない。
第三、 近代とは資本主義近代であり、後・近代は,資本主義の「後」、資本主義の止揚である。
それを現実のものとする叡智は今日の課題である。
<二>
西暦2010年も師走となる。この1年は,世界史、あるいは人類史がどのような段階にあり、その下でいかに生きるかについて、多くの示唆に富む事実がより深く顕れたときであった。
11月17日、カレル・ヴァン・ウォルフレン氏が日本記者クラブで講演した。その要約がNICOSさんのブログにある。講演の冒頭、彼は次のように言う。要約はNICOSさん。上記ブログより。
…米国の制度機構が制御不能に陥り、国全体が結果として制御不能となったためなのである。これは政府が関東軍を制御しえなった1930年代の日本にたとえることができる。アイゼンハワー大統領は離任演説で軍産複合体の肥大化と民主主義の危機について述べ警鐘を鳴らしたが、彼が予期したよりもずっと軍産複合体は成長を続けた。同じことが米国の金融産業についても言える。もはや政治的に制御が不能となっているのである。オバマ大統領は今さら何をしても遅すぎるといわざるを得ない状況である。
かつて民主党の鳩山が首相になったとき、彼はこのアメリカの変質、オバマの後退に気づいていなかったのだ。鳩山にはアメリカ遊学の経験があり、その時代のアメリカが彼の判断の基礎にあった。しかしアメリカはもはや、自由と民主主義の大義を失い,帝国最後の段階に至っていたのだ。鳩山の失敗はアメリカの現在を正しく認識して事に当たるということができなかったことによる。
11月24日、植草一秀氏の著『日本の独立』を読む。2010年12月6日第1刷発行、となっているのでそれより早く本屋に出たのだ。副題が「主権者国民と『米・官・業・政・電』利権複合体の死闘」で、これが本書の内容を一言で表している。事実に基づく説得力のある内容である。事実の積み重ねなのでそれを要約することはしないが、よくここまで明らかにしたものだと感心する。
日本の国民が現在対峙しているものの姿をこのように明確にするのは、勇気のいることである。実際、この日本で『米・官・業・政・電』利権複合体を追求したジャーナリストが幾人も非業の死を遂げている。あるいはまた脅しに屈して節を曲げた者も少なくない。そのなかでこれを書ききった植草氏に心から敬意を表する。
このような書の出版がなされること自体、帝国アメリカの力が衰退していることの現れである。本書は、超大国アメリカの存在を前提に、それと日本支配層の関係を暴露するという内容である。が、このような構造があきらかになる背景に、実はそのアメリカがすでに衰退過程に入っているという事実がある。
その過程でアメリカがファシズムに向かい、暴発し戦前の日本軍国主義と同じ道をたどるかも知れない。それも含めて「『米・官・業・政・電』利権複合体」こそが現代資本主義そのものなのだ、ということである。日本だけの個別性ではなく、形はそれぞれ違っていても、これが資本主義である。
この産軍複合体の政治権力と、共和党や民主党といった議会主義ではもはやアメリカに活路はないというところにはじまった茶会運動が結びつこうとしている。早晩それは不可避である。そのときそこに出現するのはアメリカファシズムである。
菅政権は日本の官僚、マスコミ、検察権力を通してアメリカの現在を知り、そして、それと闘うのではなく改めてその前にひれ伏しひたすら忠実な目下の同盟者となる道を選んだ。それが菅政権の本質である。
これまでの日米同盟に関する議論は、アメリカが強大であり永続することを前提にしてきた。しかし今、暴走するアメリカ資本主義は再び経済破綻に陥る。つまり、没落しつつある帝国との関係をどのようにするのかという問題となりつつある。
従ってまた、安保条約に反対することの意味も変わりつつある。一方に社会主義陣営が存在した段階での反安保。90年代は繁栄するただ一つの覇権国家の段階での反安保。そして今日暴走し没落する帝国からの離脱を意味する反安保。
現在の段階での日米同盟の意味について、これはさらに考えなければならない。
ウォルフレン氏の近著「アメリカとともに沈みゆく自由世界」(徳間書店)はこのようなアメリカの内実を実にわかりやすく、かつ詳細に論じている。日米同盟を結ぶその相手の事実を知る上でこれは基本文献である。
の姿が明確になる時代、まず現代はそのような時代である。そしてそれが一部の論者の間だけのことではなく、広く行きわたりつつある時代である。そのことを教えるのが、この間各地で行われている
『検察の横暴を糾弾しマスコミの偏向報道にNOを突きつけ、政治のあり方を問い直すデモ』である。大阪でも11月20日に行われ,参加してきた。ざっと見たところ500人以上の参加者であった。ネットの情報だけでこれだけの人間があつまる。ここにも現代という時代の側面が現れている。参加者は、今の政治のあり方に我慢できないでやってきた人々であった。うつぼ公園から難波まで1時間半、天気もよく気持ちいいデモ行進であった。
参加者に共通しているのは「小沢氏を悪人のようにいうのはマスコミの情報操作。虚心に考えれば小沢氏に非はない。検察、マスコミの横暴を暴いて、当たり前のことが通る世の中にしたい」ということであった。日本がアメリカにますます従属して、社会が荒廃することへの危機感から、何かできることをしなければという人も多かった。
このデモは東京に始まり、大阪、名古屋、新潟や福岡、札幌に広がっていった。集会とデモはいかにも手作りで、参加者の決意表明があるわけでもなく、集会宣言があるわけでもなく、デモの後での総括集会をするわけでもなく、その手の進行方法を普通に思っている当方にはやや拍子抜けするところもあった。が、逆にここにはこれまでの形式に陥った運動とは違う、何か新しい動きが出てきていることを実感することができた。準備された方々には心からお礼を言いたい。
もとよりそれがただちに現実の力になるということではない。しかし、これは必ず蓄積されていく。そして必ずこの量が質的転換をもたらすときがくる。これは必然である。
12月5日には東京日比谷公園大音楽堂で集会とデモがある。その後夜ウォルフレン氏の講演会もあるとのこと。このような広がりは、新しい人民戦線運動である。
このとき、この歴史主体の形成に関して廣瀬純氏の一文が現れた。「理念をもっていきること」(廣瀬純 『週間金曜日』2010.11.12 号)である。
『サルコジとは誰か?』はバディウによる状況論シリーズの題四巻として刊行されたが、フランスでは昨年『仮説としてのコミュニズム』(L'hypoth\'ese communiste.未邦訳)が刊行され、第四巻で提示された「コミュニズムの理念」という問題が改めて本全体の中心テーマとして取り上げられ、より詳細に論じられている。バディウの議論はおよそ次のようなものだ。すなわち、敵は資本主義と代議制民主主義とのカップルを唯一可能な社会のあり方だと喧伝し、その他のあり方を端的に不可能なものだと位置づけることで、「理念をもつことなく生きること」を我々に強いようとする。
これに対し「真に生きること」としての「理念をもって生きること」とは、可能/不可能の敵によるこうした固定的な境界画定を根底から揺るがすこと、また、そうすることで見出される新たな可能性を歴史のなかで具体的に実現していくことだ。
新たな可能性が示されるのは「出来事」(バディウ自身にとってはとりわけ"六八年五月")によってのことだが、その可能性の具体的な実現は我々一人ひとりがその実現プロセスにおのれの身を投じる「決意」をなすことによってしか始まらない。そうした「決意」の瞬間から、各人の行なうどんなローカルな活動(たとえば商店街でのビラ配布)も直ちに、世界史全体における「仮説」の実現プロセスそのものを体現するものになるのだと。
年金改革をめぐるサルコジ政権/ストリートの対立は、したがってまた、理念をもつことなく生きるのか、それとも理念をもって生きるのか、ということの直接的なぶつかり合いでもあるのだ。
日本においても、動員ではなく自分の意志で人々が街頭に出てくる段階になってきた。歴史は人をつくる。人は歴史のなかで理念をつかむ、小沢問題をめぐる日本での対立はまさに「理念をもつことなく生きるのか、それとも理念をもって生きるのか、ということの直接的なぶつかり合い」でもある。
一昨年以来、民主党小沢氏の問題をめぐって、いろいろな人が態度を表明してきた。右派のなかで西部 邁(にしべ すすむ)は小沢に対する人格的批判を行った。月刊雑誌『表現者』に集まる人たちの傾向性である。
これに対して同じ月刊右派雑誌でも『日本』に寄稿した国民新党の亀井静香代表等は、小沢氏を支持し反米愛国路線を鮮明にしている。
脳学者である茂木健一郎氏は、小沢問題の背後にアメリカの力があることを見ぬき、先日の選挙では小沢支持であった。また、森永卓郎氏は日刊「ゲンダイ」への寄稿で「私は小沢一郎を支持する」と明言していた。それに対して作家の高村薫氏は一貫して小沢非難であり、朝日新聞にもその意見表明が何回も寄せられた。
左派党派では、共産党は小沢批判、日本労働党は民主党そのものの批判、雑誌『情況』の座談会なども小沢問題に距離おいた見解が表明されていた。日本の左翼のいちばんだめなところは、そのときその社会が直面しているもっとも切実な問題について、階級的な分析を明確にし、そのうえでその対立において新しい動きを代表する側を支え必要ならその先頭に立って闘うということができないところにある。どちらもどちらだという態度で机上の批判をおこない現実の動きに無力なことである。歴史過程を観念でのりこえることはできない。
現下のもっとも切実な問題は何か。没落する帝国アメリカは、その過程でいっそうファッショ化し同盟国を巻き込んでゆく。これに対抗することを通して、日本のアメリカからの独立を果たすことである。その芽が出てきているときに、日本の左翼はおしなべて小沢も菅もどっちもどっちだという態度をとって、現実に何の力も及ぼすことができていない。
小沢問題をめぐる上記知識人らの分岐の本質は何か。金で買われた御用知識人はおいて、自分で考えた上での分岐は、根のある変革思想か、近代主義思想かの分岐である。
1950年の日本共産党の分裂は、沖縄出身の革命家・徳田球一を中心とした根のある変革思想にもとづく路線と、宮本賢治や志賀義雄を中心とした近代主義路線の対立であった。それは党内的には所感派と国際派の分岐だった。新左翼も西部も共産党も国際派の流れにある。
昭和天皇もまた、戦後はアメリカの笠に入り近代主義者となった。三島由紀夫は『英霊の聲』において、二・二六事件を起こして刑死した青年将校および大戦中の特攻隊員の霊に「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし」と天皇を怨じることばを言わせたが、三島由紀夫もまた、戦後、近代主義者となった昭和天皇に批判をもっていた。
小沢問題に対する態度は、根のある変革の理念をもつのか、否かの関わる問題であり、そのゆえにいろんな人に分岐をもたらす。このように、ようやくにして、人民戦線が現実のものとなる時代になった。このときこそ、下からの根のある変革思想が必要である。必要であることを指摘する段階から、それを述べていゆく段階へ、時代は動いている。
<三>
歴史における現代とは何か。現代の時代はどのような過程のなかにあるのか。土台にあるのは、客観的な事実として帝国アメリカの終焉が近づきつつあるということである。帝国は戦争によって解体する。ベトナム戦争,イラク戦争、アフガン戦争、この戦争が帝国アメリカの崩壊のはじまりであった。さらに経済戦争である。経済は不均等に展開する。アメリカを中心に発展した段階から、中国をはじめとするいわゆる新興国が発展する段階になった。金融の方法でアメリカはまだ勝り、しかし土台において国内産業は衰退の一途であるアメリカ、そこに大きな矛盾が蓄積されてきた。2008年の経済危機は矛盾の爆発の序章に過ぎない。2008年危機を取り繕うためドルは無制限に刷り出し続けられた。遠からずドルは暴落する。
この基調のもと、帝国アメリカとそこに同盟する欧州や日本などでは二つの動きが明確になってきた。
一つはファシズムに向かう流れである。帝国アメリカを率いてきた産軍複合体は新しい政治動向としての茶会運動などとあわさって、ファシズムに向かっている。この力は強大である。東アジアでも、韓国戦艦の沈没事件等を通して北朝鮮を挑発し、その機に乗じて黄海にアメリカ航空母艦を入れ、尖閣列島事件なども用いて、東アジアに緊張を生みだし、日本の防衛大綱も改定させた。すべてはアメリカ産軍複合体の政治工作である。菅政権はこの米国ファシズムの東洋における先兵となっている。思いやり予算を五年間保証し、沖縄には辺野古を押しつけようとする。
アメリカへの従属を継続しアメリカの利益を優先する政治か、国民の生活を優先し生活基盤の再建を優先するのか、この対立が政治的対立として表に出たのが民主党の党内闘争であった。アメリカ産軍複合体、日本検察、日本マスコミ、官僚制が一体となった工作の結果、かろうじてアメリカ従属の菅政権が発足した。
これに対してアメリカからの独立を求める動きもまた明確になった。2010年の秋は、アメリカからの独立を求めることを基調とするデモが久々に行われた。日本の人民運動では、70年初頭以来このような街頭デモは久しく途絶えていた。これまでの範疇では右や左に分けられる人々がともにここに集まった。この動きは年を越えて広がり続ける。また、沖縄知事選挙では、敗れたとはいえ日米安保条約の見直しまで掲げた伊波洋一候補が46%の得票であった。これを支えるのは沖縄現地の闘いであり、辺野古移設はもはや不可能である。
帝国主義と独占支配の時代はもう終わりに来ており、らん熟したこの制度は時代遅れになった。金融資本と帝国はその本質として、常に最大の利益、収益、拝金主義的活動を展開してきた。市場原理とか、自由競争とか、公開制度とか、国際化とかいうのは、そのための手段であって、すべては弱肉強食のための方法論であった。ブッシュのイラク戦争を見ればわかるとおり、常に独占と帝国主義は口実を求めては戦争によって世界支配を実現していく。日本にも広がる絶対的貧困、世の中のつながりの解体、農業・漁業の崩壊、みなこの金融資本のバクチ経済が生みだしたのである。日本においては「アメリカ産軍複合体−政・官・財癒着」の構造とその支配を打ち破り、これから独立しないかぎり活路はないのである。
人民運動もまた新たな段階の途上にある。フランス哲学者バディウが言うように、今日は新たな共産主義運動が顕在化するその手前にいる。以下引用は『サルコジとは誰か』より。ただし「シーケンス」は「段階」、「コミュニズム」は「共産主義」と直した。訳者である榊原達哉氏は「既存の体制としての共産主義ではなく、バディウの主張する『未来の共産主義』を意味する場合は、あえてこの訳語(コミュニズム)を用いることにした。」というが、われわれはかつても共産主義の理念を掲げていたし、その内容が展開し新たな質を獲得するとしても、それはやはり共産主義なのだ。永続革命とは継承と止揚なのだ。このような使い分けをすることは、まさに共産主義の理念のもとに哲学者であるバディウの心を汲んでいないと思う。
われわれは共産主義運動のどの段階にいるのか? 第ニ段階は、世界規模で前世紀の七〇年代の終わりに終焉したと仮定しよう。以後、この段階の最終局面を示していた批判的な経験から教訓を引き出すことで、六八年五月と文化大革命がさまざまな状況やさまざまな集団の中で、現在にふさわしい解放の政治の歩むべき道を模索していると仮定してみる。
ここでバディウは、
さて、われわれは新たな中間の時代、つまり敵対者が表面上勝ち誇っている時代のうちにいる。たとえば、失意も譲歩も抱かずにフランスで起こっていること、すなわち国家と一体化した超越論的ペタン主義の形態が再び出現していることについて書くこともできる。それは、われわれを意気消沈させるにちがいない、馬鹿げた不調和な現象ではない。それは、われわれが中間の時代にいるという事実を、局所的に結晶させることなのだ。
という。これはサルコジが勝利した2007年段階のものであり、その後2008年を経て帝国アメリカの状況は次の段階に入った。
この中間の時代と同じように、十九世紀の終わりと二十世紀の始めに、すでに非常に長い中間の時代があったのだ。ところで、この種の状況の中で、共産主義の仮説の新たな段階の開幕が予定されていることは、われわれに判明している。唯一の問題は破局の広がりの問題である。そして、再び帝国主義の不可避の痙攣である戦争が、前進、一本前進、すなわち人間の救済――な度は世界全体規模での共産主義的平等主義――を組織する唯一の前進を犠牲にして、この破局を人間に押しつけようとしている。
まさにこれが現段階であり、米国ファシズムはこの具体化である。
六八年五月と文化大革命を知るわれわれは、断固として、ばらばらになってしまった共産主義の仮説を持つ闘士たちに、あの強烈な政治的瞬間を、すでに内部に孕んだ合理的な確信を、こう伝えなければならないのである。―来たるべきものは、第ニ段階の延長ではなく、またありえないであろう、と。マルクス主義、労働運動、大衆デモクラシー、レーニン主義、プロレタリアの《党》列,社会主義国家。これら二十世紀の驚くべき発明は、われわれにとってはもはや有用なものではない。理論の水準では、たしかにこの発明は認識され、熟考されなければならない。だが、政治の水準においては、これらは実践不能になった。それが本質的に自覚されるべき第一の点てある。すなわち、第二シークエンスは閉じられ、それを引き継ぐこと、あるいは復活させることは無益なのである。
そうなのだ。党、社会主義国家、これは方法であり,第二段階で発見された方法であったが、今日それだけではもはやこの時代を切りひらくことはできない。
日本の多くの左派党派は、民主党の党内に反映した、アメリカ従属かあるいは独立かの矛盾を正しく分析できず、「どっちもどっちだ」「茶番にすぎない」との態度に終始した。ここに既存の左派党派がその歴史的役割を終えた現実がある。心ある左派党派の人々が、このことに気づいて新たな道に進むことを心から期待する。
われわれに与えられている事柄は、仮説の新たな存在様式が生み出すものの助けとなることである。この仮説が生じさせうる、あるタイプの政治的実験による新しい仮説の存在様式。われわれは第二段階やその最後の試みによって多くを学んでいる。すなわち、われわれは共産主義の仮説の存在条件に回帰すべきなのであって、ただ単にその手段を完璧なものにすべきなのではない。国家と大衆運動との弁証法的な関係、蜂起の準備、規律のとれた力強い組織の構築だけに、われわれは甘んじることができない。じっさいわれわれがなすべきは、イデオロギー的かつ軍事的な領域において再び仮説を設置することなのである。
…
こんにち、共産主義の仮説を政治の局地的実験―設置されている反動支配に対抗して、私かポイントと呼ぶもの、言い換えれば、固有の持続、特殊な一貫性などの維持をわれわれに許す実験―の中で擁護すること。それこそ、仮説の維持が自らの自明性から脱皮することとして出現するための最低条件である。
端的に言って、新しい時代の基本は、経済は人間の方法であって目的ではない,ということなのだ。そのうえで人間の尊厳にもとずく協働の回復である。さらにその協働は、個別性の輝く新たな普遍でなければならない。西洋の普遍はつまるところ資本制の普遍であった。経済に従属する普遍であった。人間の尊厳にもとづく文化の個別性を尊重しあえる新しい高い段階の普遍、これが課題である。
それに向けて,理念をもって生きよ。2010年はこの課題が明確に歴史に登場した年となった。